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デンマークの人生の学校で余白の意味を知る

自宅にいながら、ふとデンマークの空や大地を思い出す。

自分がこれほど自然と「一体化」するような感覚を覚えたのは

40数年生きてきて初めてのことだった。

都会で長年暮らしていると、大自然という非日常の風景は

とてつもなく贅沢なことのように思える。空が青くてきれいなだけで

うれしかったり。そんな繊細な自分がいるなんて、想像すらして

いなかった。感受性がはたらいていること、そして五感で味わうこと。

本当は当たり前の日常で、忘れていただけなのかもしれない。

デンマークの片田舎の共同生活で得た恩恵。

きっと死ぬ時の走馬灯には出てくる記憶。

大人達がそれぞれの価値観で毎日を思いのままに生きている。

上下も評価も、正解も不正解もない。人間に興味があったりなかったり、

何かに執着したり飽きてみたり。突然涙が出たり、ひたすらキャンバスに

色を塗り続けたり。そう、まるで子どもの頃のように理由のない遊びを。

この世界と人生はなんだかんだ楽しんだ者勝ちだ。

誰のものでもない、自分が生きたい道を生きるということ。

そしてそっと目の前の人へ、心からの愛と自由を。

私には「余白」が必要だった。それはある種、自分から自由になると

いうこと。豊かさの価値ってなんだろう。


いつもの散歩道、広大な平地から海につながる道があって

そこを歩いている時にはなぜかいつも大きなエネルギーに

包まれているような感覚があった。私はその道を勝手に

「ヘブンズ・ロード」と呼んでいた。

私には何か特別な能力や霊感があるわけではないが

メッセージらしきものがふんわりと降りてくる。

自然のエネルギーを全身に受けて、身体中の細胞が反応して、

感情があふれ出てしまうのだった。

「生物と自然、地球も宇宙もすべてはつながっているから。

生まれた生命は全部尊くて愛おしい。

これからもずっとずっと、私たちは守られている。」

こんな風に聞こえてきた自分の心や身体は、

何か新しいアンテナと感覚を手に入れたのかもしれなかった。

ただそこに存在する自然や人間に、純粋に感動してしまうのだ。

人間には想像以上にバイアスがかかっていてわかったつもりになっている

思い込みも含めて無自覚にジャッジを繰り返している。

ありのままで何かや誰かとつながることを恐れたりする。

足りないものや違うものには敏感すぎるくらいなのに

目の前にあるはずの小さな幸せは見過ごしてしまう。

心や身体より頭のキャッチが先になって

理性や理屈の鎧でがんじがらめになって

自分のサインに気付かないことが当たり前になる。

本当に求めていることは、心と身体が知っている。

荷物を詰め込んですべて抱えて生きてきた人は

余白の価値を知らない。

余白とは、感情を解放するための大切な空間と時間で、

そこに立ち現れる新しい自分だったり、感性や価値観が変わる

きっかけになったりもする。

ブレたり迷ったり立ち止まったり、一見すると1ミリも

進んでいないような気がするけど、人知れず内面の成長があって、

人生は続いていく。

すべての自分を認めて受容する。そこから始まる。

日常や人の温かさにほっこりできる瞬間があって

そんな小さなハッピーを積み重ねていった先にどんな選択もきっと

「これでいいのだ」って笑えていたら最高だ。

デンマークで過ごした時間と土地と人達、そして人生の学び。

そこはかとなく漂っていた余白の世界に感謝しよう。

















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