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高校生と演劇教育 第6回レポート テーマ「演劇と高校生―そもそもなぜ演劇なの?」

 毎月第3土曜日の10:30からの「高校生と演劇教育オンラインイベント第6回」を今月も開催しました!テーマは「演劇と高校生―そもそもなぜ「演劇」なの?」でした。

 先月は「高校生」であることとは?というテーマで青年期の特徴から議論しました。それも熱い議論!でしたが、今回は「演劇」であることとは?というのがテーマです。私にとってももはや人生において大事になってきている「演劇」ですが、この「演劇」を深堀りして、演劇がどんな特徴を持っている芸術なのか、ということから高校生と演劇教育についてみなさんと考えました。

 本日も継続参加のみなさんや再度参加してくださった方、そして新しい参加者1名の計6名が参加してくださいました。ありがとうございました!

 みなさんの自己紹介をきいていて、私がこのイベントを始めた当初考えていた演劇と高校生に関わる人同士で話したい!ということが今、実現できているのだなととても嬉しくなりました(^^

 さて、今日のテーマは「演劇」。演劇とは何か?といったときにみんなが参照できる定義とはどこにあるかな、と思った時に思い浮かんだのがクリスティアン・ビエ、クリストフ・トリオー著『演劇学の教科書』(国書刊行会)でした。

 これは演劇について勉強しよう、研究しようとしたときに最初に参照できる近年の良著だなと思います。翻訳してくださった先生方(佐伯隆幸(監訳))本当にありがとうございました。

 その『演劇学の教科書』の冒頭に以下のような演劇の定義があります。

「演劇とはなによりもスペクタクル(見世物)であり、つかのまのパフォーマンス(身体的表現行為)であり、つまり見つめている観客を前にして俳優が提示する身体の作業であって、たいていの場合は特別の場所特別の舞台装置(デコール)の中で、ある方向に向けて身振りを行使しながらおこなわれるものだ。この点で、演劇は必ずしもあらかじめ書かれたテクストと結びついているわけではなく、また必ず書かれたものの刊行の端緒となるものでもない。(p.9)」

 なるほど、スペクタクル、つかのまの、パフォーマンス、観客、俳優、身体の作業、特別の場所、特別の舞台装置、ある方向に向けて、声、身振り、テクスト、など重要な構成要素が言葉になっているな、と思いました(太字になっているところです)。

 そこで議論のきっかけのためにこれらの重要な構成要素を元にした資料をつくりみなさんに提示しました。


本日の資料1

いちばん右の欄は、前に「演劇とは」とつけると定義付けられる、それぞれの構成要素を説明する一文になっています。例えば「演劇とは普段とは違う特別な時と場所で行われる特別なもの」である、「演劇とはライブ(生)で行われ、その場限りで消えてなくなるもの」である、など。

そして一通り説明したあとに、本日の問いかけをしました。


本日の資料2

 ここで少しお話したのは私の博論のことでした。私の博論では、この一覧の中で言えば、「俳優」の欄の「演劇とはある人が身体を用いて別の人(役)になるもの」である、の部分の教育的意味や価値のことしか解明していないんです、と。それだから、他の部分についてももっと考えたいんです、と。

 ここからいつもの後半が始まりです。みなさんに少し考えてもらって、思いついた人からお話してもらいました。そしてチャットにも書いてもらいました。

 継続参加の、高校で演劇の講師をしている方から手が上がり、

「今日のために事前に考えてきたのは「演劇でチームビルディングを学んでいる(学ばせている)」ということだった。でもこの一覧の中には「チームビルディング」については見当たらないような気がする。どれにあたるのかな?」

という質問でした。私は、まったくの疑問もなく、演劇の定義を元に演劇の特徴を網羅しているだろうと今回の資料を作成しました。この方の「チームビルディング」はどこにあたるのだろう?という質問を受けて、驚きました。あれ?書いていないな、そういえば…

 確かに、演劇教育の文脈で、演劇は総合芸術だからそれをつくっていく過程でのチームビルディング、あるいは合意形成の能力(あるいはコミュニケーション能力)が育まれる、ということは言われていなかったか? いや、よく言われているよな。しかし、そういえばこの資料には「チームビルディング」に関するようなことは書いていないな…

そこで思い至ったのは、そうか「チームビルディング」は、演劇だけに存在する構成要素ではないんだ、つまり演劇であるための要素の一つではないんだ、ということでした。

 それをみなさんにお伝えしました。

今日も議論の最初から「ハッ」とする瞬間が訪れました。

 チャットの方でも意見がどんどん上がっていました。
 継続参加してくださっている大学の先生から二つのことをあげてもらいました。その一つ目です。

「その1
つかの間の 消えちゃうもの
パフォーマンス 日々の人生と同じだなと思いました。

特別な、と表現されているけれども日々の一瞬一瞬も本当はそれぞれ特別なものなのではないか。さもすれば、それを強調するために演劇として枠組みを設けているとしたら、よりよく生きるための練習の方法として演劇っていいのかも。

いいことは活用していきたいです。」

 演劇の「つかの間の」「消えちゃうもの」という特徴は、確かに「日々の人生と同じ」ですね、このことをお話してもらった時に、今この瞬間も消えてなくなってしまう、と言われていて、あーそうだよな、日々の些細な生活は、いつもその場限りで消えている、、と思い至りました。

そして、演劇の「特別な」という表現から「日々の一瞬一瞬も本当はそれぞれ特別なもの」なのではないか、というご指摘、そしてそれを演劇という枠組みを設けているとしたら、「よりよく生きるための練習」としていいのかもというご指摘、なるほど、その意味で特別、つまり演劇は日々のそれを「特別に」切り取っているのか、と思い至りました。演劇ってそうだったそうだった。くう(感嘆の声)。

 そしてそのお話に関わるだろうご意見がチャットの方に。継続参加で、これまでたくさんの小・中・高校の演劇教育に関わってきた大学の先生からのご意見です。

「演劇学の教科書でいう身体の間に空気があると思うのですが、その空気が情動を刺激して、その「教育」に期待される正の強化をする、というのが、今朝のわたしの思いつきです。空気を扱う時間は、既存の教科や学習法法にはほとんどないのでは」

 「空気」とのこと。くう(感嘆の声)。

 たしかに、演劇で行われる身体を用いた演技(表現)の中でつくられているものに「空気」とか「空気感」とか、言葉にならないような「雰囲気」といったようなものがあります。それがその場にいる人たちに感染して、この方の言葉で言うと「情動を刺激して」、そこにいる人たちを変容させる(お話の中では「正の強化も負の強化もありえる」と指摘していらっしゃいました)、ということですね。

 空気のような捉えどころのないものも演劇は扱っています。そしてその空気がその場にいる人に影響を与えることもしばしばなんだと思います。これは演劇を経験している人はよくわかることかもしれません(今日もそういった意見も出ましたね)。イベント内では詳しくお話できませんでしたが、そしてたしかに「空気」のようなものを扱う既存の教科や学習方法は他にないのかもしれません。

 私からは、その「空気」をどう作るかとか、「空気」を教師・ファシリテーションしている側がどう扱うか、どう扱えるか、ということも重要なのでは、という感想をお伝えしました。

 さて、チャットの方で、最初に出た「チームビルディング」のお話に関わる投稿をしてくださった方がいました。今日初参加の現役を引退し、今は非常勤講師を続ける高校の先生からです。

「コミュニケーション教育を文科省が盛んに言っていた時代は、演劇はツールで目的はチームビルディングでしたね。」

すると、最初の発言をしてくださった演劇の講師の方から、演劇にはもっと他に素敵な要素があったのに、チームビルディングとかコミュニケーションとか、現場に受け入れられやすいものとして宣伝されてたんだなと思いました、といった発言がありました。
 そうですよね。一方で、この現実については、私を含めてある一定の意味があったということはみんな理解しているところだと思いました。
 
 そしてこの発言を受けて、そうだ、この演劇の素敵な他の要素からもう一度演劇教育のこと考えてみようよ、というのが今日のイベントの目的ですよ!ということを私は改めて認識しました(笑)。

その間にもチャットの方にどんどんご意見があがっています。大学院生で、来年度から高校の教員になる方から。

「日常生活では失敗できないコミュニケーションを、自分ではない誰かに仮託したり、何度でもそのコミュニケーション自体を吟味し、やり直せる、演劇(稽古?)の場は、大きな特徴なのではないかなと思いました。」

そうですね、参加者同士のチャットでも、

「稽古場って「失敗する場所」と言われるので〇〇さんの言うことすごくわかります。大事ですよね。」

と反応が。
お話してもらって気づきましたが、「特別な場」という意味での「稽古場」の意味が垣間見えました。演劇における演技の場であり、その吟味の場である「稽古場」で行われるような、コミュニケーションを何度もやり直せる、という場は、演劇ならではの場であるだろうな、と。

それはやはり「日常生活」から切り離されていること、が重要なのかもしれません。この方が言われるように「日常生活では失敗できないから」です。

イベント内では取り上げることができませでしたが、チャットの中でのやりとりで、稽古場では失敗できる、ということに対する以下の反応がありました。

「それが失敗ではなく成功への布石だと共通認識がある状態が大事だと思います。」

これは教育的な意味でとても大事なことだなと思いました。もちろんプロの現場でもこの共通認識は大事だと思います。しかし教育の場においてはこうした失敗が失敗のまま終わるのではなく、それは成功のための失敗であり、成長のための失敗であることを共通に理解している、理解されていることは大事だなと思いました。くう(感嘆の声)。

 チャットはまだ止まりません。

 二度目の参加の演劇のWSや高校の授業で講師をされている方からチャットにご意見いただきました。

「テクストから考えると、
「少しでも他者(自分の立場とは大きく異なる)思考を刺激するために、テキストを書いて、他者の視点で検証する」。言い換えると「他者に伝えるために、言葉を見直す」と言えるかもしれません。

なぜ演劇か、と言われると、「その瞬間、その場でどう他者とつながって、どんな空気が生まれたか」を検証する、わざわざ言葉にしない、またはしにくい「暗黙知」を経験によって学んでいくのもあるかと。

以下、少しテーマとズレるかもしれませんが…
あとは、自分が表現することで、他者の表現を見る視点を獲得できると思います。つまり極端な話、どんな表現も「無」にはならなくなる、ということだと思います。」

 この中にはいくつかの視点がありました。

 一つは「テクスト」の視点ですね。
私が提示した資料の中の「テクスト」の部分では「物語、ストーリー、筋、ドラマ、言葉で書かれたもの、虚構」と説明されています。

つまり、「テクストを書く」という行為には、物語(ストーリー、あるいは筋)で思想や思考を伝える、ということが含まれると思います。そういう意味で、そうした自分の思想や思考を他者に提示して、他者からの評価を受けるということがあると思います。この方が言っているようにその中で「「他者に伝えるために、言葉を見直す」」作業がそれによってできるのだと思います。

イベント内では詳しく言及できませんでしたが、これはある意味、その本人にとって、社会に訴えるため、あるいは社会のための思想形成や思考の形成になっているのかもしれません(いや、とてもなっていそうです)。これは、演劇の「見る人がいる方向に向けて届けられるもの」という要素が、高校生の教育、学び、成長発達につながっている一つの例かもしれません。
くう(感嘆の声、これは今後も考えたい)。

 もう一つは、前にも言及された人間と人間が作る「空気」に関わることだと思いました。

「わざわざ言葉にしない、またはしにくい「暗黙知」を経験によって学んでいく」と書かれていますが、まさに他者とどうあるか、どういるか、と言ったような言葉にならない、ふつう言葉にしないことを、やってみることで経験にしながら学んでいる、ということがあるように思います。

イベント内ではこちらも詳しく言及できませんでしたが、そうした「空気」をつくる「身振り」というものを考察したり、学んだりすることができるところが演劇ならではなんだな、と思ったりしました。

このあたりで、カンカンカン!と時間が来てしまいました。
時間があっという間です。

時間になりましたが、今日はもう少しオープンにしていますのでと、少し残った方とお話できたのも嬉しかったです。
 最後にチャットに

「「演劇ならではの要素」は、最近あまり考えていませんでした!みなさん、ありがとうございました〜!」

という言葉と、

「コミュニケーション教育、は方便なわけですが、「方便としての演劇教育の目的論史」を誰か書いて欲しい!」

という言葉をいただきました(>_<)。

 私も実践者、そして研究者として「演劇ならではの要素」と「学び」がどうつながるかということを考え続けること、そしてその周辺の理論、歴史を参照し、言葉にしていくことをしていきたいなと思いました。

本日も充実した議論をしてくださった参加したみなさま、本当にありがとうございました!そしてこのレポートを読んでくださったみなさまも、ありがとうございます。

 みなさまの明日の実践が楽しくなりますように。願っています。

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