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高校生と演劇教育 第7回レポート テーマ「高校生と演劇教育のこれから」

11月になりました。今月も「高校生と演劇教育オンラインイベント」を開催しました。第7回になります。5月から始めたイベントですが、夏を超えて秋になりました。

月1回のイベントをこうして続けてこられていることは、参加者のみなさん、応援してくださるみなさんがいるおかげです!
本日も高校生と演劇教育に関わる方々にご参加いただきました。ありがとうございます!

さて、本日のテーマは「高校生と演劇教育のこれから」です。当初は「未来」という言葉を選んでいましたが、副題「これからどうするの?」をメインテーマとし、これまでの議論を踏まえて「これから」を具体的に考えようという趣旨としました。

本日は継続参加の大学の先生、演劇の授業を持っている実践家の方、元高校教員で演劇教育団体の関係者の方、演劇教育の実践家である小学校の先生が参加してくださいました。

今回は、これからを具体的に考えるための問いを最初に提示しました。
それは、

「演劇の授業で何をどうやるのか? そのための方法と内容(コンテンツ、及び目的)の融合とは?」

というものです。
これまでのイベントでは「目的」、「内容」、「対象(高校生)」、「方法(演劇)」を個別に議論してきました。そこでは、それらが横にどうつながるのか、ということはまだ考えていませんでした。

そこで「これから」を具体的に考えていく時に、これらの横のつながり、融合を考える必要があるなと思ったのです。

そのために次のような資料をつくりました。


資料1

目的、内容、方法というのは重なっています(図の円の重なり)。そしてその結果(右端の緑色の円)がある、という図です。

演劇教育的実践(授業であれ、WSであれ)を行う時に、実践者はその目的(こんなことを考えて欲しい、こんなことを学んでほしい)と、内容(どんな題材、どんなお話、どんなシチュエーション)、及びその方法(どのようにそれを展開するか)を考えると思います。それを表した図です。

そしてその結果として「参加者に変化があったのか」「目的は達成されたのか」「何か新しい発見があったのか」といったことが見えてくるはずです。

そのトータルなやり方には無限の方法があって、その組み合わせによって実践のオリジナリティが出ているはずです。

そこで、みなさんに、次の一つ目の問いかけをしました。


問いかけ①

「これからの社会において」というのが、本日のテーマに関わることかもしれません。これからの社会において高校生に対して、どんなことを目的にし、それのためにどんな内容(コンテンツ)で、それをどんな方法でやるのか。その結果、どんなことが起こりそうか。

そして、本日は二つの目の問いかけもありました。


問いかけ②

これから例えば新しい実践をしようとするときに、何がそれをすることの障害になっているのか、問題となっているのか、困難となっているのか、ということを考えてみようという問いです。

なぜこの二つ目の問いを設定したのか。それは、私自身が、高校生と演劇教育、または演劇教育的実践が日本においてより良い発展をしていくために、なにが問題となっているのかを知りたかったからです。

今後、演劇教育実践がより良い方向にいくことに私も全力を捧げたいと思っており、今何をすればいいのか、何ができるのか模索しています。そのためにも、みなさんとこのことを考えたいと思ったのです。

さて、みなさんに考えてもらいました。

継続参加の演劇の講師をしている方から。

答えようとしても大きな問いのために、どう答えていいかわからない。それでも考えたことを話したいと思う、と言って、お話してくださいました。

その方は演劇の授業で、社会に出た時に使えることを伝えたいと思って授業をやっている、とのこと。それは、演劇というのは集団で何かをつくる必要がある。そうした集団で何かをしなければいけないときに、どう動くのか、そういったことを伝えたいと思ってやっている、とのことでした。

お話を聞いて私からは、「それがある意味その授業の「目的」になっていますね、そうすると「内容」そして「方法」としてはどんなことが考えられますか?例えば、内容として「集団で創作をする」ということでその目的が達成させられるのでしょうか?」と問いかけました。

するとその方は、「私は授業でやること全てで、そのこと(「社会に出た時に使えることを伝えたい」目的)を意識してやっている。例えばシアターゲームをしていてもそのことを意識している」とのことでした。

そうだな、と私も思いました。授業全体の大きな目的がそれとしてあることで、授業一つ一つの中で行われることがそれに基づいて行われるわけです。その時思いました。「そうすると一方で、細分化された目的が細かい内容の中にあるということになりますね」と返答しました。つまりその小さなものの積み重ねで大きな目的を目指しているのですね。

すると、こちらも継続参加の先生がちょっと違う角度でご意見をお話してくださいました。その方は「空気を読まないで発言するとすれば」と前置きしてお話してくださいましたが、示唆に富む重要なご指摘でした。

それは「めあての二重化」が起こっている。というお話でした。

つまり、授業者、あるいはファシリテーターには目的(めあて)があって、それに基づいて計画されたWSをしていたとしても、その目的以外のことを生徒たちは学んでいる、というお話です。

それは演劇WSではよく起こることだと思います。そしてその先生は、そうした生徒一人一人の多様な学びがあること、そのことそのものが演劇WSの良いところでもある、というお話でした。

私は「ヒドゥンカリキュラム」だな、と思いました。それはポジティブにもネガティブにも働いていると思います。

つまりご意見としては、授業者、ファシリテーターが望んだことだけが起こるわけでもないし、あまりそうして目的と内容と方法を融合して、などと考えすぎないほうがいいのではないか、ということでした。

すると、最初の発言の講師の方から、たしかに、演劇WSや演劇実践から本当に多くのことを学ぶことができる、そのことに魅力を感じているからやっている、だから、〇〇先生の言うことは大事なことだ、とお話してくださいました。

そこで私が思ったことがありました。もし、生徒それぞれが多様に学んでいる演劇WSが良いWSだ、という感覚があるのであれば、その時に実施者が考えている目的は「生徒それぞれが多様に学ぶことができること」ではないのか。つまり、それを目的に実践の内容を構築することができれば、実践者が思う良い授業、良いWSができる確率が上がるのではないか、ということでした。つまり「多様に学ぶことができた」WSだったから、いつのもWSより良かったね、という偶然良いWS、良い授業だった、とふりかえることではなく、良いWS、良い授業をいつもできるように、確率論的に良いWSの確率を高めることが必要なのではないか、ということでした。それをみなさんに伝えました。

つまり良い授業、良い実践をたくさんしたいわけです。

そうして私の今日の「目的」をお話したところで(笑)、他の参加者のご意見も伺いました。

元高校教員の方から、過去の自分の演劇の授業実践について、反省を込めて、次のようにお話してくださいました。

自分が関わっていた演劇の授業では、みんなで創作して発表する、というのが大枠の授業内容だった。そのときに、ある男子生徒と女子生徒が教室でのシーンを創作した。それは生徒たちが自ら作ったお話であった。その話はLGBTQに関わるお話になった。教師の指導によってではなく、生徒自らの創作であるため、偶然的に社会のこと(社会の問題)を考える時間になった。それはまったくの偶然で、授業者の意図とは関係ないところでの学びであった。でも、演劇の授業で「社会のことを学ぶ」という目的で授業をすることがもしかしたらもっとできたのかもしれない、というお話でした。

私もそう思います。偶然に頼らず「社会のことを学ぶ」時間は演劇の授業の中で、もっとできるはずだと思います。

このことも、さきほどの偶然性に頼るのか、いや、計画するのか、という問題です。

私は、授業者側からのアプローチによって社会のことを学ぶことはいくらでもできると思います。そうすれば、偶然に頼ることなく、深く社会の問題を参加している全員で考えることができるからです。ボアールのテクニックを使うことももちろんできます。

すると、先ほどの発言者は、あるジレンマもお話してくださいました。

つまり、授業者の意図があからさまであると、生徒にそれを考えることを押し付けるような格好になってしまうことがあるだろう。そうした押し付けになってしまっていいのか、というジレンマでした。

私も、ああわかるなあ、と思いました。高校の授業という構造のなかで、教師側の意図が明白である場合、無理して生徒たちがそれに乗る、教師はそれに乗せる、ということが必要になります。そうしたやらせる、やらされる感覚に対する嫌悪感はわかります。

そこで私が思ったのは、教師、及びファシリテーターのやり方のバランスの問題でした。教師側が生徒を強制することなく、うまくその中に自然に巻き込む、とか、生徒に自分ごととして考えてもらうような方法を使う、とか教師、及びファシリテーターの技術的な問題が関わってきます。

すると、その元高校教員の方は、方法を学ぶ必要がありますね、という反応を返してくださいました。

本日の問いかけ②に関わることかなと思いました。

教師、ファシリテーターの技量の問題です。教師、ファシリテーターがやりたいと思っても、そのための方法が使えなかった、その授業はできません。

もう一人の参加者である小学校教員の方からもご意見いただきました。

演劇教育実践も長くやっていらっしゃる方なので、さまざまな方法を学んでいらっしゃいます。獲得型教育研究会での演劇的手法の勉強会などで学んだジョナサン・ニーランズのコアアクティビティなどを使って、高校生と社会的な問題を考えるWSを行ったりしている、というお話でした。

私からは、そうした方法を学ぶこと、それが多くの実践者にもっとできればいいなと思いました。方法を学ぶことで、実践の広がりがあると考えるからです。

もうこの時点で、今日は時間が過ぎていたのですが(笑)、私も話したいと思い少し続けました。

「めあての二重化」のお話をしてくださった先生が、最後に語ってくださったのは、実際に行われたWS(多様な生徒の多様な学びが含まれている)の中での学びを分析することが今大事だと思っているというお話でした。

私は、思いました。そうだな、それが「研究」だな、と。

私自身も、何が起こっているかわからない自分の実践で、生徒たちに何が起こっているのか、どんな変容がどのようなきっかけで起こっているのか、ということをデータを分析することを通して明らかにしました。

そうして明らかにしたことが言葉(論文)になることで、私自身も頭が整理されて、今度は逆に、それを使って授業を設計することができるようになりました。そうすると、良い実践の確率が上がります。

つまり、実践を構築する、実際に行う、ということを続けることと同時に、実は「研究」的営みがそれを補う形になるのだ、ということです。

私はそのことをお話して、そう考えると今は「研究」が圧倒的に足りていない、というお話をしました。

一つ一つの実践はすぐに消えてなくなります。蓄積ができません。いくら良い実践であっても、それの何がどう良かったのかがわからなければ、それは蓄積されません。

「研究」の必要性が、今日のイベントでは、最後にとてもよくわかりました。そしてその「研究」の成果が、実践に還元されることで、実践がさらに良くなります。その循環が今、できていない、ということが、今の問題なのだということが明らかになりました。

今日のイベントのテーマは「高校生と演劇教育のこれから」ということでしたが、今の問題が明らかになったことで、「これから」に進んでいくことができそうです。

そんなところで、今日のイベントは終わりました。本当にご参加くださったみなさま、ありがとうございました。

そして、このnoteも読んでくださったみなさま、ありがとうございます。みなさんの実践にとって、何か示唆になることがあれば幸いです。

次回は12月16日。最終回のテーマは「まとめ」です。これまでの議論をふり返ります!
イベントに参加希望の方は以下のフォームからどうぞ。

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