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高校生と演劇教育 第5回レポート テーマ「高校生と演劇―そもそもなぜ高校生が演劇をやるのか?―」

高校生と演劇教育に関するイベント第5回「高校生と演劇―そもそもなぜ高校生が演劇をやるのか?」を開催しました~。

第1回から継続参加の方から初めてご参加の方など5名の方にご参加いただきました。本当に本当にありがとうございます!

今回のテーマは〈そもそも〉シリーズです。このイベントは「高校生と演劇教育」と謳っているわけですが、今日は、元をたどっていって「高校生」って人間にとってどんな時期だったっけ?ということをふまえた上で、演劇との関係を考えて行こう、考えてみよう、というテーマでした。

さて高校生とは…15~18歳の大学に行く前、あるいは社会に出る前の子どもたち、でしょうか。といっても、「子ども」というかもう「大人」というか、その「狭間」というか、そういう時期でしょうか。

今回はまず議論の土台として、私が博論でも扱ったエリクソンのライフサイクル論における青年期の問題を提示しました。ひとまず、この土台から始めようという趣旨です。


本日の資料1

エリクソンの青年期における対立する概念は「アイデンティティVSアイデンティティ拡散」です。これまでの自己(乳児期~学童期までのあいだにつくられてきた自己)とこれからの自己(青年期以降の自己)の狭間に立ち、揺れる時期です。ここで「自分は自分であり、これからも自分であり続ける」という確信を得る(同一化)ことが目指されるわけです。といっても現代人が青年期にみんなそれを達成しているかというとそうではないかもしれないわけですが(またその考え方はもう違うのでは、という人もいるかもしれませんが)、ひとまず、議論の土台として提示させていただきました。私は今でも有効な議論だと思っていますが。

さて、資料(資料1)で示したものが少し多くなってしまったわけですが、その青年期というのは、実は乳児期~成熟期にいたるライフサイクル全体に関わる問題だということがわかるように「青年期に内在する各時期の要素」と「その不健康の基準の詳細」を資料に示しました。

いろいろ書いてありますが、つまり青年期はとてもたいへんな時期ということです。その時期を過ぎてしまうと、つまり大人になってしまうと、あのギリギリの、切羽詰まった、尖ったナイフのような感覚を忘れてしまいがちです。そういう時期の真っただ中にいる高校生と大人とでは生きている時間と場所が同じでも、つまり同じ空間にいても、同じ空気は吸っていないかもしれないとさえ思います。

そのうえで、今回は次のような問いかけをしました。


本日の資料2

そうしたギリギリの様々な葛藤を抱えた青年期の時期にある高校生が演劇をやること、それを演劇の授業とか部活とか関係なく、広くお話していただけたらとお伝えしました。

まず、最近、長年高校で演劇の授業をしていたいしいみちこさんのワークを受けたという参加者(小学校の教員)の方から、いしいさんが大事にしていたことは以下のようなことだったのではとお話くださいました。

「先月、いしいみちこさんのワークを受けて感じました。高校時代に「自分の体を問い直すこと」「自分の物語を存在させること」」

「自分の体を問い直すこと」「自分の物語を存在させること」
私はこの二つをうかがっていていしいさんの実践のことを思い出しました(石井路子著『高校生が生きやすくなるための演劇教育』参考)。確かにいしいさんの実践では「体」にフォーカスされていたな、「自分の物語」にフォーカスされていたな、と。

こうした指導者の意識があるからこそ、その先にどんなワークをやろうか、どんな演劇をやろうか、ということが決まってきますよね、とお伝えしました。

次は毎回参加してくださっている高校で演劇の授業を受け持っている方から、「講師としての立場も、演出家としての立場も、高校演劇出身であるという立場もある自分」としての意見をお話してくださいました。

「青年期って「子ども」の終わる時期、で、大人になっていく時期。家では「子ども」であり、学校では「生徒」である。でも演劇の場では、そうしたものから解放されて、どっちでもない自分を探すことができる場なのではないだろうか」

なるほど、生徒たちが普段与えられている属性から離れて、しかも、社会的な存在でもなく、なんでもない、どっちでもない自分になれて、どっちでもない、あるいはこれまでと違う自分、を模索できる場、ということでしょうか。そういう解放された場を「演劇」なら作れる、ということでしょうか。

とても興味深いな、と思います。そしてこれは、先に出たいしいさんの「体」にフォーカスする、「自分の物語」にフォーカスすることともしかしたら離れたところにあるかもしれないと思いました。あるいは、離れているようで、同じ所に着地するのかもしれません。

次は、高校と大学で教えていらっしゃる方は、思ったことをそのまま、混沌のままに伝えてくださいました。

「うーん、思ったことを混沌のままに…
・青年期、というときに、中~高6年間含まれる?
・前勤務校(男子校)では、中2~高2が「長いトンネル」
・高2で、「過剰な責任」を遂げることでトンネルから抜け出す?
・中・高時代の男女の発達差?(この時期は男性の方が幼い?)
・演劇部や選択科目「演劇」や演劇大学に女性が圧倒的に多いのはなぜ?(男性に演劇が必要ないはずはないのに)」

「青年期、というときに、中~高6年間含まれる?」
まず、青年期がどこからか、ということですが、中学生もその青年期初期として入ってくると思います。でもそれが学校の学年制できっぱり分かれるということでもないので、まだ学齢期の中学生もいるし、青年期に入っている中学生もいるし、人によって違うのかなと思います。確かに青年期といって高校生だけのことを扱えばいいわけではないので、大事なことです。

「前勤務校(男子校)では、中2~高2が「長いトンネル」」
そして、中2~高2の「長いトンネル」という表現は、とても興味深かったです。中1はまだ小学生(学齢期)を引きずっていて、たぶん、中2から大人とのはざまにたちはじめる。それは身体的な変化が大きいと教えてくださいました。そうですよね、エリクソンのいうように身体の変化が影響します。そして、トンネルが「高2」まで、というのも、わかる気がします。今の感覚としては青年期は長くなっているので、高2で終わることはほとんどないのだと思いますが、一旦、高3になると進路のことを考えざるを得なくなって、混沌とした青年期から一歩踏み出すのかもしれません。

「高2で、「過剰な責任」を遂げることでトンネルから抜け出す?」
高2で「過剰な責任」を遂げることでトンネルから抜け出す?と疑問形で書いていただきましたが、今回の回の中では詳しくお話できませんでしたが、何か大きな責任ある仕事を任されたり、達成できた、と感じると、トンネルから抜けるのかもしれません。

「中・高時代の男女の発達差?(この時期は男性の方が幼い?)」
この時期の男女の発達差、のことは、エリクソンを読む限り出てきませんでしたが(私の記憶では)、この方の疑問は、恐らくその次の「演劇部や選択科目「演劇」や演劇大学に女性が圧倒的に多いのはなぜ?」という疑問と重なっていたと思います。

「演劇部や選択科目「演劇」や演劇大学に女性が圧倒的に多いのはなぜ?(男性に演劇が必要ないはずはないのに)」
高校演劇部に女性が多い、男性が少ないというのは、よく聞く話です。一方、私がいつも思うのは、私が勤務している私立和光高校では、逆の現象(演劇部も演劇の授業も男性のほうが多い)が起こるので、一般化できないとも思っています。今日のイベント内では以下の私の仮説を述べました。

私立の和光学園では幼・小・中学校で演劇をたくさんやっており、演劇の面白さを知っている生徒が多い。そうすると男性も女性も単にこれまでの演劇が楽しかったからとか演劇が好きという生徒が、演劇部と演劇の授業に集まってきます。そこに性差はありません。
ゆえに、もし公立の学校で演劇部に女性が多いのであれば、女性の方がそれまでにドラマを多く見ているとか演劇を多く見ているとか、男性の方はドラマをあまり見ていないとか、演劇をこれまでやったことないとか、そもそも知らないとか、演劇ってなんか恥ずかしそう、とか、そういうことで少ないのかもしれません。
しかし、この中・高校生の時期の演劇部の男女比については、多くの人が女性が多い、という実感をもっているようです。

次に高校で演劇の授業の講師をしている方(もう一人の方)からのご意見が出ました。

「『下流社会』(三浦展著)を読んでいたら書いてあったことで印象的だったのが「一生懸命だらけている」という指摘であった。それはつまり普通の教室(個人個人の机が整然と並んでいる)ではだらけたら、だらけたままいることになる。でも、演劇の場は開放的な空間であるから、だらけていたら、その体を変えることができる。演劇が、体を変えることができる、という空間であることが大事なのではないか。」

というご意見でした。演劇が持つ場・具体的な空間が、青年期の彼らの「あえてする」態度を、「変えられる」から意味があるのだ、ということでしょうか。このあえてする「だらけ」は、エリクソンのいう「否定的アイデンティティの選択」と近い態度だと思います。より良いとされるものから遠ざかる態度、ある種の逸脱行動ですね。それを、ほら、演劇やるよ!という声かけをすることで、「変える」というか、こちらに引き寄せる、という感じでしょうか。
なるほど、こちらのご意見も大変興味深いご意見でした。

最後に、道徳教育の中で役割演技を用いている研究者の方からのご意見を伺いました。演劇というのは身体を用いるという観点から、意見がある、ということでした。

「日本の場合、青年期の身体は、スポーツなどの「たたかう身体」の方が多い。しかし演劇というのは、同じ身体を用いるけど、役を演じる、ということに使う。その過程で、自分を見つめる、ことができるだろう。そこではユージン・ジェンドリンのいう「フェルトセンス」(「何か意味を含んだからだの感じ」https://holistic-com.co.jp/2017/07/07/focusing2/参照)が働いている可能性がある。実感に触れる、どう感じるか、ということに関わるのではないか。実証しているわけではないが、そう考えている。」

というご意見でした。
なるほど、「たたかう身体」では感じることのないことを「演じる身体」は感じる、その「フェルトセンス」が、青年期の彼らにとって何か意味があるのではないか、ということでした。
こちらも大変興味深い、お話でした。

このお話を受けて、チャットの方にメモを残してくれた方がいました。

「1946年に高校演劇を支援したのが「補導協会」で、戦後の青少年の荒れるエネルギーの吸収、という趣旨だったようだったですが、そう考えると男性は、戦うスポーツ、の方に吸収されていったのかもしれませんね。」

青年期のエネルギーを「吸収」するという意味での「高校演劇」だったのですね。しかし、そうしたエネルギーは、「たたかう身体」を用いるスポーツの方に流れていったのかもしれない、というご意見でした。
そういう意味で、高校演劇が今でも「競争」であることと関係があるかもしれない、とコメントしていらっしゃいましたが、それもなるほど、関係があるのかもしれない、と思ったりしました。

と、今日はこのあたりで時間切れとなりましたが、こうしてまとめてみると、とても興味深い視点がたくさんありました。

このイベントは、何か答えを出すようなイベントではありません。こうしてみなさんと、こうなのではないか、こういう考え方もできるのではないか、と話すことで、今まで考えてもいなかったこと、が見えてきたり、他の誰かにとって示唆を与えるものがでてきたりするのかもしれないと思いました。

今日もとても充実したイベントになりました。ご参加のみなさん、本当にありがとうございました。
そして読んでくださるみなさんにとっても、何か示唆のあるものになれば幸いです。ありがとうございました。

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