[小説] リーラシエ ~新月~
第一夜 月齢0
「今日は月が見えない。」
空は深い闇の世界でいつもぽっかり浮かんでいる白い月はいない。新月。
新月の時、リーラシエは心がざわざわするのを感じる。得体の知れない底なし沼のような不安や恐れが心を逆撫でする。いつもの明るい光がないことがリーラシエの奥で渦巻く感情を助長する。空に輝く星たちもどこか心細そうだ。
「ミャン。」
猫がベッド脇でリーラシエを見上げている。顔の中心についた二つの目が溶けそうなほどトロンとしていて、今にも眠りに落ちそうだ。
「そうだね。もう寝よう。」
リーラシエはまどろむ猫を優しく撫で、唇を引き結んで横になった。心がざわつく月の見えない日はさっさと寝ることにしている。息を吸い、吐き出す。余計な思考を抜き、新鮮な空気を入れる。
けれど、心は落ち着きを取り戻さない。それどころか、鼓動が速くなっていく気がする。
「え?」
リーラシエは耳を疑った。足音がする。人の。まさかと思った。こんな夜にこんな奥まった所に人なんて来るはずがないと。しかし、今度は足音とともに人の気配まではっきり伝わってきた。間違いない。外に、人がいる。
リーラシエは跳ね起きた。敵意は感じないが油断はできない。側で眠っていた猫もリーラシエのただならぬ緊迫した空気を感じ取り目を覚ました。
サクッ、サクッ、サクッ。
誰かが草を踏み締める音が大きくなる。誰かがこちらに向かってくる。近づいてくる。一体、誰が。ふいに足音が消えた。人の気配は消えていない。どうやら木戸の前で静止したようだ。夜遅いから家の中の人がすでに眠っていることを危惧しているのかもしれない。
リーラシエは外にいる人の様子を探っていたが、一向に動き出そうとする気配がないので、仕方なく部屋の明かりをつけた。窓の外で人影が動いたのが分かった。
コン、コン、コン。
やや控えめな乾いた木の音が響いた。リーラシエの家にドアノッカーはない。ドアノッカーとは一般的な家庭にある訪問者のためあるいは帰ってくる家族のための玄関扉についているものだ。リーラシエには訪問者も帰ってくる家族も存在しない。だから、ドアノッカーがない。それなのに、訪問者。
リーラシエは恐る恐る木戸を開けた。ギィーという薄気味悪いが鳴る。
見ると扉の向こうに一人の人が立っていた。驚いた。人の気配を感じていたのだから当たり前なのだが、本当に来訪者だとは到底思えなかった。何かの間違いか気の迷いだという想念を捨てきれなかった。
お互い硬直した。リーラシエの頭の中では様々な考えが駆け巡っていた。どうして来訪者が現れたのか。目の前にいる人は一体何者なのか。来訪者だとしたらどうしたらいいのか。リーラシエは何か言わなければと思いつつ何を言えばいいのかわからず口をぴくぴくさせた。
「こんな夜更けにごめんなさい。わたくし、旅人のディアナと申します。」
ディアナと名乗る外の人は申し訳なさそうに、けれど必死そうに言った。
一方でリーラシエはきょとんとしていた。旅人。こんな辺境の地に。旅人なんて見たこともない。旅人だというその人をリーラシエはまじまじと見た。薄汚れた粗雑な装いに無造作な髪の毛、大きな鞄を一つ持った姿は旅人そのものだった。
「ミャン。」
ずっとリーラシエの影に隠れていた猫が進み出てきた。表情は柔らかで旅人のことを気に入ったようだ。喉をゴロゴロ鳴らしている。
「どうぞ。」
リーラシエは自分が発した言葉が耳に入ってきて驚いた。意識すらせず気づいたら言っていた。
どうぞ。
誰かに対して優しさを見せたのはいつ振りだろうか。
ディアナと名乗る旅人をテーブルに案内し、リーラシエはお湯を沸かした。
「本当にありがとうございます。」
淹れたてのハーブティーを差し出すとディアナは深々とお辞儀をし、感謝の言葉を口にした。ハーブティーの入ったカップを両手で持ち、ほっとしたように顔を緩め、一口飲んだ。
「ディアナさん、あなたは旅人なんですね?」
リーラシエは物珍しそうに尋ねた。
「はい。」
ハーブティーを半分くらい飲み干し、心底安堵した様子でディアナが答える。
リーラシエは未だに信じられなかった。目の前の人は確かに旅人だ。頭では分かる。けれど、全くといっていいほど実感が湧かなかった。
「ミャオン。」
猫がディアナの足元に近づいて顔をすりすりし始めた。猫はこんなにも人懐っこかったのか。
「可愛いですね。あなたの猫ですか?」
ディアナは猫の頭を慣れた様子で撫でながらリーラシエの方を見た。
「いいえ。飼っているわけではありません。けれど、大切な友達です。」
ディアナは感心したように目を見開き、大きく頷いた。猫はリーラシエの元によく来るけれど、飼い猫ではない。猫には猫の家がある。だからリーラシエは猫に名前を付けていない。
「ディアナさん、何か食べますか…」
リーラシエが食べ物を取りにキッチンへ向かう途中振り返ると、ディアナは両腕に顔をうずめて寝息を立てていた。よほど疲れていたのだろう。猫がディアナが座っている椅子の脚を爪でガリガリしても起きる気配は微塵もない。
その様子を見てリーラシエはなぜか安心した。と同時に自分が今の今まで気を張り詰めていたことに気づいた。初めての来訪者。旅人。そもそも最後に人と会ったのは、会話したのは何年振りだろう。
何より初めて人の温かさに触れた気がした。人の熱が手を通して伝わってくる感覚。空気が柔らかく温まる雰囲気。
それは初めての感触なのにどこか懐かしかった。
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