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アリストテレスの「政治学」を読む #1

2023年7月、光文社古典新訳文庫から、アリストテレスの「政治学」の新訳が出版されました!これは嬉しいです。

アリストテレスは古代ギリシアの偉大な哲学者で、その思想は後世に影響を及ぼしている…くらいのことしか知りません。が、以前何かの雑誌で、アルゼンチン生まれの政治家・革命家でもあるエルネスト・ゲバラが、戦場で読むためにリクエストした本の一冊だということを知りました。ゲバラのことが特別好きというわけではありませんが、20世紀に政治的革命を起こそうとしている人が、紀元前4世紀の人の政治哲学を参考にしているというところが面白く感じられ、それ以来、アリストテレスの「政治学」には興味を持っていました。

このシリーズでは、光文社古典新訳文庫の「政治学」を読みながら、政治というものに対する西洋の考え方を理解していきたいと思います。紀元前4世紀と現代では、考え方が全然違うのかもしれませんが、古代ギリシアの考え方って割と西洋思想の基本になっていると思うので、知っておいた方が良い気がします。

本の概要を満遍なく紹介するというよりも、読んでいて気になった箇所をピックアップして、あれこれ考えを巡らせてみたいと思います。


第一巻 共同体についての緒論と家政論

第一章 最高の共同体としての国家

およそ国家というものは、私たちが目の当たりにしているように、どれもが一種の共同体であり、どの共同体も何らかの善のために形成されている。それは、万人が、善いと考えた目的のために万事を行うからにほかならない。

人は「善い」と考えた目的のために動くから、共同体は何かしらの「善」のために形成されているという主張です。性善説なんですかね。性悪説の人からすると、また別の国家の定義ができそうです。

第二章 国家に至る共同体の自然発生

知性によって先を見通せる者こそが自然的な支配者であり、主人になる性質の者である。他方、その見通された事柄を、身体によって仕事として行える者が被支配者、すなわち、自然的に奴隷になる性質の者である。

頭のいい人が支配者になるってことか…まぁそうなんだろうなぁ。ただ、「支配者になる者と被支配者になる者とが、互いを活かして生存するために組になる」とも書いているので、実際に身体を動かしてくれる人がいなければ、支配者も存在し得ないことにも言及しています。

あらゆる国家は、その基礎になった最初の二つの共同体(家と村)も自然的に発生した以上、自然的に存在していることになる。…(中略)…人間は自然本性的に国家を形成する動物である。

男と女がいて、結ばれて、家族ができて…というのは自然なことだし、兄弟が生まれて分家して、複数の家族が同じ集落(村)に住む…というのも自然なことだから、村が集まって国ができる…というのも自然なこと。つまり、人間は国というものを作る生き物なんだよ、と言っています。これ面白いですね。動物の場合、縄張りを作る動物はいますが、国というものは作らない。(いや、確かなことはわからないけれど…)でも、人間は国というものを作る生き物。これを定義していることが面白いです。

言葉の役割は、有益性と有害性を明示するところにあり、したがってまた、正義と不正も明示できるのである。なぜなら、善と悪、正義と不正などの感覚を人間だけが持つことこそ、他の動物と対比される固有の特性だからである。つまり、(言葉による)善と悪、正義と不正などの共有が、家や国家を作り出すのである。

この文章の前にアリストテレスは、「なぜ人間だけが国を作るのかというと、人間だけが言葉を持つからだ」と言っています。人間と動物を比べた時に、人間だけが善悪や正義・不正義の感覚を持っている。その理由は、人間だけが扱う言葉というものに「善悪や正義・不正義を示すという役割がある」からだと言っています。

ここも面白いと思いました。「同じ言葉を使う人たちは、善悪や正義・不正義に関して同じ価値観を持つ」のだとすると、「国が違えば、善悪や正義・不正義に関する価値観が違う」ということになります。

価値観が違うのだから、そりゃあ国同士で争いが起こるのも無理はないですよね。相手の考えを尊重することができるなら交流してもいいかもしれないけれど、それができないなら交流しない方がいいのかもしれません。

第三章 家政の部分

まずは主人と奴隷の関係について論述してゆこう。その目的は、日常生活に欠かせないという意味での必要性の観点から両者の関係を知ることにある。…(中略)…主人の奴隷に対する支配は自然に反するという見方をする人々もおり、その理由として、奴隷と自由人に分けられるのは人為的な取り決めによるという点を挙げる。つまり、両者は自然的には何ら異ならないのだから、強制的に分けられているにすぎず、正しいことではないと考えているのである。

主人と奴隷の関係性は欠かせないと言っています。当時の価値観からするとそうなのかもしれませんが、今の価値観では、うーん、そうなの?と首を傾げてしまいます。アリストテレスがこれから述べようとしている「主人と奴隷の関係性は自然なものだよ」という説に対して疑問を持っているので、私はここでいうところの「主人の奴隷に対する支配は自然に反するという見方をする人々」の一人ということになります。

第四章 家政の道具としての奴隷

人間でありながらも、その自然本性ゆえに、自分が自分の所有物ではなく、他者の所有物になる者、これが自然本性的な奴隷である。つまり、人間ではあっても誰かの所有物になっている人間は他者に帰属しているのであり、この所有物は実践のための道具であるとともに、(命を持つゆえに)所有主から離れて動ける道具なのである。

人間だが、自分が自分の所有物ではない…このあたり、資本主義社会における労働者(自分もそうですが)は、身につまされるところがあると思います。以前、社畜などという言葉が流行りましたが、それはほぼ奴隷と同じような意味ですよね。奴隷は、主人からすると、人間というよりも「動ける道具」なんですね。人間として見られていない。うーん、つらい…

第五章 隷従は自然に反するか

身体にとっては魂によって支配されることが自然に即しており、身体のためにもなるということである。また、感情的な部分である欲求にとっては、理性を備えた部分である知性によって支配されることが自然に即しており、欲求のためにもなるのである。…(中略)…すべての人間の間でも、優る者が支配し、劣る者が支配されるのでなくてはならない。…(中略)…身体と魂、人間と獣には優劣の差があり、それらと同じ程度の差をもって人間の中で劣位に置かれている者、これこそが自然本性的な奴隷にほかならないということである。そして、自然本性的な奴隷にとっては、身体や獣の場合もそうであるように、自分より優れたものによる支配に服することが、より善いことなのである。…(中略)…奴隷の方は、日常生活に必要不可欠な身体の使用に向くように屈強になっているのに対し、自由人の方は、まっすぐに伸びた体形を持ち、日常生活に必要不可欠な作業には向かないけれども、国家における市民生活には適した身体になっているのである。

ちょっと長めに抜粋しましたが、人間には優劣というものが毅然として存在し、人間と獣くらいの差で劣っている者が奴隷だと言っているわけですね。第五章において奴隷は「動ける道具」でしたが、ここでは「獣」です。自由人と呼ばれる人たちが、奴隷というものをどう認識していたかがよく分かります。そしてそれを当然のことのように肯定していることも。

自由人の身体は「日常生活に必要不可欠な作業には向かない」と言ってますが、それって自分で身の回りのことができないって言ってるのと同じですよね。それって人として大丈夫なん!?と思いますが、「国家における市民生活には適した身体になっている」のだそうです。じゃあその市民生活って一体何をすることなんでしょうね。政治を考えることなのかな。

ここで押さえておきたいことは、「自由人は、自分たちの身の回りの世話をする奴隷というものを肯定しており、自分たちは身の回りのあれこれをやる必要がないと思っている(もっとレベルの高いことを考える役割がある)」と考えているということです。この考え方って、今もあるんじゃないかなと思います。

以前テレビ番組で、フランスかどこかの学校の先生が日本に来て、日本の小学校の生徒が自分たちで掃除しているのを見て、「何で子供たちにこんなことをやらせているの!?」と指摘していました。未来の可能性に満ちた子供たちに、何で掃除なんかさせるのかと非難しているようでした。

私が気になったのは、その指摘を受けた日本側の先生が腰を低くしながら、子供に掃除をさせる意味について何も答えていなかったこと。…テレビだから、答えていたけれどカットされたのかもしれませんが…。いずれにせよ、子供に掃除をさせることには「自分の生活を支えてくれる身の回りのものを大切にする、感謝の気持ちを養う」という大切な目的があります。これがひいては、周りの人を大切にする、周りの人に感謝するという気持ちにつながります。ただこれを言ったとしても…いわゆる個人主義の強い国の人には、その必要性は伝わらないかもしれませんが。これこそが文化の違いであり、お互いに理解・尊重し合うべきで、自分の価値観で他者の価値観を否定するものではないと思います。

第六章 自然的な隷従と法的な隷従

ギリシャ人は自分たちの生まれの善さについて、自分たちの地域内に限らず、どこでも通用すると信じている一方、ギリシャ人以外の民族の生まれの善さについては、それぞれの地域内でのみ通用すると考えているのである。…(中略)…自然に基づき、それぞれの自然本性にふさわしい仕方で奴隷と主人が関係を結んでいるときには、何か両者のためになることも存在すれば、互いに友愛も存在するのである。それに対し、自然に基づいてではなく法に基づき、強制的に両者の関係が作られている時には正反対の結果が生じるのである。

ジャイアン的な考え方やな〜と思います。第二章あたりで、「国が違えば、善悪や正義・不正義に関する価値観が違う」ことを言わんとしているのではないかと思ったのですが、ここでは「ギリシャ人の生まれの善さはどこでも通用する(そこに国の違いは関係ない)」と言っています。単なる押し付けでは…。

また「それぞれの自然本性にふさわしい仕方(なんやろそれ…)」で関係を結ぶなら、互いに「友愛」も存在すると言っていますが、第五章で「動ける道具」とみなし、第六章で「人間と獣くらいの差で劣っている者」とみなしている奴隷に対して、「友愛」の気持ちなんか持てるのかな…と疑問に思います。奴隷の方も、そんなふうに自分のことを認識している主人に対して、「友愛」の気持ちなんか持てるのだろうかと思います。

第七章 主人の知識と奴隷の知識

奴隷を使用するための知識は、何なら偉大なものでも、何ら意義深いものでもない。なぜなら、奴隷の側では自分が行う事柄を知っているという意味での知識を持たなければならな、同じ事柄に関し、主人の側では命令方法を知っているという意味での知識を持たなければならないというにすぎないからである。それゆえ、こうしたことに煩わされないで済むだけの好条件に恵まれている人々は、奴隷の監督を誰かに委託し、自分自身は国家の運営に携わったり、哲学にいそしんだりするのである。

主人は奴隷にうまく命令さえできれば良くて、恵まれた環境にいる人ならそれさえも誰かに任せて、国家の運営や哲学について考えるそうです。…さっきは、自分の身の回りのこともしないで大丈夫かなどと言いましたが、一方で、自分の身の回りのことをする時間を、国家の運営や哲学に費やしてきたからこそ、西洋の人は国家戦略を考えることに長けているのかも、と思いました。

第一巻は、第十三章までありますが、今回はここまで。
単なる興味で手に取ったアリストテレスの「政治学」ですが、読んでみると面白いですね。当時と現代では考え方が大きく違う部分もあると思いますが、「西洋の考え方」の基本を知ることができそうです。

次回は、第一巻の第八章から続けていきたいと思います。それでは!

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