後醍醐天皇と光厳天皇 〜その5 倒幕後の後醍醐天皇の政治(2)〜
歴史の教科書でさらっと通り過ぎてしまう南北朝にあえてフォーカスを当ててみるこのシリーズ。前回、鎌倉幕府倒幕後の処理に対応し、王権確立に邁進するための露払いをした後醍醐天皇。今回は、これまで政権の主人公だった武士を、どのように王権の仕組みの中に取り入れ、鎌倉の動向も監視しておくか…そういった部分に後醍醐天皇の手腕が光ります。(この辺り、しばらく光厳院(後醍醐天皇即位時に退位させられ、光厳院になったのでした)は出てきません…)
ではさっそく、見ていきましょう!
政権に武士を取り込む(1)
後醍醐天皇は、政権の座を奪われた武士の扱いにも配慮します。その第一弾が、各種訴訟を扱う「雑訴決断所」に武士層のポストを用意することです。
武士の力を借りて鎌倉幕府(武士政権)を打ち倒したからこそ、彼らを蚊帳の外に置くのではなく、きちんと王権に取り込む。そうすることで彼らの不満を低減しつつ、彼らの動向を把握できる状態にしておく。後醍醐天皇、やり手です。
政権に武士を取り込む(2)
武士の扱いの第二弾が、武者所(天皇直属の親衛軍)と窪所(朝廷内外の警護)の設置です。自分たちを守るための力として、武士をしっかり活用します。
政権に武士を取り込むだけではありません。後醍醐天皇は冴えています。
政権の弊害となり得る制度の廃止にも踏み込むみます。
具体的には、「武家政権の頂点ポジション」である「征夷大将軍」のポジションを廃止。後醍醐天皇が王権を握るのですから、「武家政権の頂点ポジション」など不要です。また、その征夷大将軍に近いポジションで特権を与えられていた「御家人」の制度も廃止します。王権において、「特権を持った武士」など不要だからです。
後醍醐天皇は、王権を確立する上で「武士に特別な権利を持たせない」ことに配慮したわけです。
東宮を擁立し建武に改元
旧政権があった鎌倉にも目を光らせておかなければなりません。
後醍醐天皇は36人の子供の中から、寵愛する阿野廉子との子供である恒良親王を東宮として鎌倉に送ります。
武士への対処をしっかり済ませ、勢いに乗る後醍醐天皇。さぁ、いよいよ本格的な王権の始動です!その景気付け(?)に、元号を「建武」に改元!!
「武」を倒したのに元号に「武」を入れる後醍醐天皇。
「武」は流血を連想する言葉なので、周りの公家たちは元号に「武」を入れることに反対したようです。たぶん「武」とか「武士」というものを嫌っていたのでしょう。しかし後醍醐天皇は、王権の確立に「武」は欠かせないことを実感していたと思いますし、後醍醐天皇の理想として王は武勇を持つものだという考えがあったのではないでしょうか。
改元して気分新たな後醍醐天皇は、王の威光を輝かせるために、新たな施策をどんどん打ち出していきます。次回、その内容についてご説明したいと思います。
お楽しみに!
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参考文献
記事作成にあたって、次の書籍を参考にしています。