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後醍醐天皇と光厳天皇 〜その3 後醍醐天皇の反撃と鎌倉幕府の滅亡〜

歴史の教科書でさらっと通り過ぎてしまう南北朝にあえてフォーカスを当ててみるこのシリーズ。前回、鎌倉幕府の討幕を画策する後醍醐天皇が隠岐島に流され、光厳天皇が即位したものの、後醍醐天皇が諦めずに隠岐島を脱出して各地の兵士に挙兵を呼びかけました…さぁどうなる!?

ではさっそく、続きを見ていきましょう。

後醍醐天皇の反撃と六波羅探題の陥落

隠岐島から脱出した後醍醐天皇は、伯耆守であった名和長年の協力を得て、船上山で幕府側との戦いに勝利します。ここで勢いづいて、各地の武士に討幕を呼びかけると、それに呼応する動きが高まってきます。ただならぬ状況を察知した鎌倉幕府は、名越高家と足利高氏を大将とした幕府軍を西へ向かわせ、鎮圧を命じるのですが…

鎌倉時代末期、北条氏の圧政が続いていて、幕府への不満が高まっている状況です。

京都を出発した名越高家は、後醍醐天皇側の武将である赤松則村、結城親光、千種忠顕らとの戦いで討ち死にしてしまいます。そして名越高家の死を知った足利高氏が、幕府側に反旗を翻すのです。

幕府としてはたまったもんじゃありませんね。後醍醐天皇の反乱の鎮圧に向かわせた大将のうち、一人が討ち死にし、もう一人に裏切られてしまったわけです。

足利高氏は、鎌倉を出る頃から、北条氏の圧政に不満を持っていて、後醍醐天皇側につくつもりだったそうです。

この後、足利高氏、赤松則村、千種忠顕らが京都の六波羅探題(朝廷を監視するための幕府の機関)を攻めます。六波羅の北方の武将である北条仲時、南方の武将である北条時益は、光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇を守りながら、配下の兵士たちと共に六波羅を脱出します。

光厳天皇一行の野伏からの逃亡と蓮華寺での悲劇

六波羅から脱出した一行を待ち受けていたのは、野伏(のぶせり:落武者狩りをする武装農民たち)でした。彼らの襲撃に遭い、北条時益が討たれ、光厳天皇も傷を負いながら、琵琶湖の東側を北上し、中山道の番場宿に着いた頃には、はじめ約2000人いた兵士の数が、約700人まで減ってしまっていたのでした…

番場宿に着いた天皇・上皇と六波羅勢は、人馬ともに疲れ切っています…

この先の峠には野盗たちが待ち構えており、後ろからは野伏たちが追ってくる。蓮華寺に本拠を構えた北条仲時は、もはや自分たちで天皇・上皇を守ることはできず、それは武士の恥であると考え自害します。そして配下の兵士たちもその後に続き、なんと約430人もの兵士たちが自害したのでした…。北条仲時は、天皇・上皇を守るという責任を放り投げたのではなく、自分の首を足利高氏に差し出すことによって、生き残った者たちが赦免されるように計らったのでした。

大勢の武士たちの自害を目の当たりにした天皇と上皇は、肝をつぶしてただただ驚き、なす術もなく捕らえられ、その後伊吹山の護国寺へ移されます。

鎌倉幕府の滅亡と後醍醐天皇の復活

足利高氏の寝返りによって六波羅探題が陥落した頃、高氏をライバル視する上野国の武将、新田義貞が機を見て鎌倉に進軍し、北条氏との戦いに勝利を収めます。約150年続いた鎌倉幕府は、足利高氏が幕府に反旗を翻してからわずか1か月ほどの間に滅んでしまうのです。

後醍醐天皇の念願だった討幕が、ついに果たされることになります。

勢いに乗った後醍醐天皇は、伯耆(今の鳥取県の中西部)にいる時点で、光厳天皇を退位させます。このタイミングで光厳天皇は、光厳院になります。

京都に戻ってきた後醍醐天皇は、光厳天皇が即位していた時代の元号であった「正慶」を、自分が即位していた時代の元号である「元弘」に戻します。

また、光厳天皇が即位した後に実施された政治的行為を一切無効とします。光厳天皇改め光厳院からすると、たまったものではありません。

さらに、後醍醐天皇は皇位継承の流れを大覚寺統に引き寄せます。元々、後醍醐天皇は、大覚寺統の直径である邦良親王が成長するまでの間の、中継ぎという立場で天皇になっていたのでした。ただ、その後に邦良親王が亡くなってしまったため、後醍醐天皇が隠岐島に流された後に持明院統の光厳天皇へと皇位が継承されたのでした。このような状況で、京都に戻ってきた後醍醐天皇の後継は誰にするのでしょうか?もちろん、退位させた光厳院に継承する…わけはありません。後醍醐天皇は、息子の恒良親王を皇位継承者にすることで、両統迭立の流れを変え、大覚寺統による皇位継承の一本化を実現しようとしたのです。

次回は、カムバックした後醍醐天皇が推進した建武の新政と、その頃の京都の動向について図解してみたいと思います。討幕の夢を叶えた後醍醐天皇が執り行う政治とは!?お楽しみに!

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