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第7話:「食べる」が好きなわたしが考える、これからの食との向き合い方

「食べる」ということに異様なほど興味があるように思う。
特に、見知らぬ土地の人が食べているものに興味がある。
食べ物を口に運んでお腹を満たすという行為が好きというのはもちろんだが、
「食べる」という行為が全人類にとってもたらす価値に、ほぼ共通するものがあることに安心感と高揚感をおぼえるからだと思う。
どんなにわかり合えない相手とも、たったひとつ「食べる」ことの価値はたぶん、変わらない。
遠く離れた聞いたことのない料理でも、ひと口食べれば「おいしい」と思える。
「おいしい」は世界共通言語だ。
(「赤ちゃんがかわいい」も。)


おかあさんの味、初めてのデートでの緊張の味、部活後にみんなで食べるアイスの味。
そんなほんわり温い記憶の味だけでなく、
お腹のすく心細さ、お腹をすかせた子どもを目の前にしたやりきれなさ、自分だけ食べられないというひもじさ。
程度の差はかなり大きいことは承知のうえだが、そういった記憶の味は、豊かな人だったとしても何となく味わったことがあると思う。

1994年初版の『もの食う人びと』と2017年放送開始の「ハイパーハードボイルドグルメリポート」

だから、若かりし頃に出会った辺見庸氏の『もの食う人びと』(初版1994年)は、すりきれるほど読んだ。
こんなに何度も読み返した本も少ない。
災害から逃れ、逃げた先で受け入れざるをえない加工食品を目の前にするフィリピン先住民。
チェルノブイリ原発からたった20〜30kmしか離れていない村々の、地元の食材であふれたふだんの食事。
バングラデシュの、宴会料理の残飯。
わたしたちからすれば過酷といわれる環境におかれる人の「食」。
そこで何を考え、何を食うのか。
背負っているバックグラウンドもおかれている環境も、何もかも違うけれど、食べ物へのまなざしは変わらない。

この本を映像化したような番組がある。
2017年から不定期に放送される「ハイパーハードボイルドグルメリポート」だ。
テレビ東京のディレクターが、単身で「ヤバい人の飯」を撮りに行く。
映像だからこそ目玉に飛び込んでくる衝撃的な絵、そして音。いやおうなく脳裏に焼き付く。
ファストフード店の残飯をあさって命をつなぐ、マニラのスラムの子どもたち。
その日たった1回の食事がまかなえる分だけのお金をやっとかせぐ、リベリアの元少女兵の娼婦。
牛の足や脳などくず肉と呼ばれる部分を安く買って、ごみを燃やした火で調理して食べる、ケニアのゴミ山の老人。

『もの食う人びと』の取材から20数年経っても、繰り広げられている食のもように大差がない、あるいはもしかしたら悪化すらしていることに、がく然とする。

わたしと彼らとの差は

わたしはたまたま日本に生まれ、たまたま豊かな暮らしが送れてきた。
その根っこに両親の苦労は確実に存在する。
でも彼らとわたしの境遇の差に、何か合理的な理由があるのかと言ったら何もない。
ただのたまたま、だ。

食べものを分かち合うこと

「あなたも食べる?」「ひと口どうぞ」「一緒に食べよう」
『もの食う人びと』でも「ハイパーハードボイルドグルメリポート」でもよく出てくる言葉だ。
その日やっと手に入れた食べものを、知り合って間もない人に分ける。
その良心はにわかには信じがたいけれど、食べものを分かち合う・もてなす、という行為は人としてのプライドにかかわる部分なのだろう。
コミュニティ全体での種の存続のために食べ物を分け合うのとはワケが違う。それは動物でもやっている。
他者を思いやること。貧しくても分け与えられること。それが人が人たる所以なのかもしれない。


わたしが高校生の時、カナダへのホームステイに向かう飛行機の中で、隣の席に座ったのは中国系のおじさんだった。
食欲がなく、出された機内食を半分以上残したわたし。
ちょうど食後に、そのおじさん(おじさんAとする)のところに遊びに来た、別のおじさんB。
おじさんAは、おじさんBを笑顔で空いていた隣の席に招じ入れたうえで、わたしの食べ残した機内食を「もう食べないのか?」と身ぶり手ぶりで聞いてきた。
何事かと思いつつわたしが「食べない」と意思表示をすると、私の機内食のトレイをさっと持って行っておじさんBに「食え食え」とふるまった。
おどろいた。それはわたしの食べ残し!いかに10代のぴちぴち女子高生とはいえ!
でもそこでも「他者に食べ物をふるまう」ことがこのおじさんの文化では、衛生観念なんかよりもよっぽどプライオリティの高いものなのだと知り、4%くらい感動したことをおぼえている。(残り96%は、やっぱりひいてしまった。)

フードロス

「食べものを分かち合う・もてなす」ことが人としてのプライドであるならば、
フードロス問題の存在は、人としてのプライドを失っていることだと言ってしまってもかまわないだろうか。
どこもかしこも余りまくってどうにもならない、という世の中なわけではない。
余っているところと、足りていないところが歴然と存在する。

来ないかもしれないお客さんのために用意され、結局廃棄される。
食べきれない量を注文して、食べきれずに残す。
安売りで買いすぎたりして、賞味期限が切れたといって、捨てる。

余らせるほどかかえこんだけれど、捨てる。
この行為に、人としてのプライドはあるだろうか。

お金をかせぐためのツールとなった、食

「タピオカ」「もちもち」「ふわふわ」「この食材が血圧に効く」「やせる」。
お金を払ってすぐ得られるような快楽を「はやり」として再構成することは、特定の資源を独占することと同義だ。
独占すると値段がつり上がる。
本当にその資源を必要としている人にお金がなかったら、その人のもとには届かなくなる。

はやりは、廃る。
そうなると独占されていた資源のゆくえはどうなるのだろう。

いや一方的な批判めいたことはよくない。
無くてはならない存在となっているなら、はやりのものでも食べ続けていいのかもしれない。
ヨガのようにはやりとして導入されたものが長く支持され、新しい地位を得ることがある。

でも、「はやり」の存在そのものを疑う目は同時に養いたい。
食に、「はやり廃りがある」という自明のことすら問い直す時期に来ていると思う。
昆虫食、培養肉、菜食…「え、ちょっとそれは…」と今はひるんでしまうようなことを、当たり前のこととして受け入れなければいけなくなる日は、すぐそこだ。

はやっているからと手を出しておいたけれど、飽きたといって無視する。
この行為にも、人としてのプライドはあるだろうか。

今わたしたちが、食に向き合う態度

ホセ・ムヒカ大統領が言っていた。
本当の貧しさとは、手に入れてもまだ飽き足らず欲しがり続けることだと。
豊かさとは、限られたものでも分かち合う、もてなすという他者への視線と配慮、つまり人としてプライドをもち合わせていることなのだと思う。

食べられていない人が分かち合っているのに、余らせている人が分かち合わずに独占したまま捨てているという矛盾のなかに、わたしたちは日々平和に生きている。

だから、豊かなわたしたちが必要以上に欲しがったらいけないと思う。
食べられていない人がもし遠くに住んでいたら、わたしが今日作りすぎた肉じゃがを持っていくことはできない。
けれど、必要以上に買いすぎない、作りすぎない、そして欲しがらないことはできる。

必要以上に欲しがらない。
こんなこと、親として子どもにも言っていることだ。
「えんぴつ、まだあるでしょ。無くなったら買おうね。」

「まだあるでしょ。」
声を大にして言いたい。まだあるんだ。
新しく買わなくても、全然大丈夫なんだ。
その食べ物、まだ食べられるよ。こんな使い方したら、おいしく食べ切れるよ。

おいしいごはんを、みんなが食べたい


『もの食う人びと』を初めて読んだ時から20年くらいは経つかもしれない。
でも、毎回同じように突き動かされるものを感じているのに、わたしは何の行動にもうつれていない。

でもわたしは特定の「誰か」に対して感情をかき乱しているわけではない。
誰もが悪気があるとは思えないし、罪を犯しているわけでもなんでもない。
でもだからこそ、かき乱される。

どんな人でもみんな、おいしいごはんを幸せな気持ちで食べたいはず。
そこはきっと、変わらないのだ。





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