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選びたいものを選ぶということ


先日noteに夫が泣いた日のことを書いた。
いまだしんどい毎日なのだろうと察せられる日々。


『俺も花粉症になったかも……。』
出勤の準備をしつつ、ネクタイを締めながら夫が言う。
夜中、鼻が詰まるし鼻水も止まらなかったらしい。

私のアレジオンを飲んでいいよと伝えると、悩みながらも『飲んでいこうかな。』と水を取りにキッチンへ来た。

水切りラックにコップはいくつかあったのに、それは手に取らずコップの入っている棚に手を伸ばす。

棚の扉を開けて、手前に小さめのグラスがあるにもかかわらず、手前に夫の好きなコロコロ揺れるグラスも置いてあるのに、
わざわざ手前のコップを退かさなければ取れない奥のマグカップを手に取る。

ウォーターサーバーの水を入れてアレジオンを飲み、飲み終わったマグカップをシンクへ入れた。


一連の流れを見ていて、「私だったら、水切りラックにある適当なコップを使ってしまうのにな。」と、思った。

夫はいつも少しこだわりのある方だけれど、一方でそういう些細なことに対しても、その日の自分の気分を大切にできる人なのかもしれないと思った。

感情の振れ幅が小さい夫が思わず泣いてしまうほどしんどい毎日の中でも、自分の中の自分の声が、”選びたいもの”が、ちゃんと分かるのだ。


私はいつも手間や時間、お金のかからないものを選んでしまって、自分がどれを選びたいかなんて考えられないし、考えようと思ってもなかなか本音の自分が見つからない。

だから素で選びたいものが選べる夫を見ていて、「だからいつも穏やかでいられるのかな。」と思った。


ふとした時に何もかもままならない感覚に陥るのは、日常の些細な”本当は選びたかったのに選ばなかったこと”に自分の感情が埋もれてしまうからなのかも知れない。


その日は私も、水切りラックに置いてあるマグカップではなくて、なんとなくこれがいいと思えた赤いマグカップでコーヒーを飲んだ。



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