「鎖」という制限をはずすこと。これが”自由”です。
こんにちは。
ジャッジの鎖を外した時、あなたは本当の”自由を知ります。
「自由」という言葉は、人それぞれの概念の中で捉え方が変わりますが、
なんでも好きなようにする、とか
好きなようにさせてあげる、とかそういうことではなくて、
もっと広い視点で捉えてみようというテーマで書いてみたいと思います。
「自由」とは、『鎖』からの解放。
わたしたちは、制限の中で生きています。
その制限の内容はさまざま。
父、母、姉、妹、兄、弟、職業、地位、学歴、キャリア、家柄など・・・。
もっと細かくすると、
几帳面、人懐っこい、おおらか、怒りっぽい、
細かい、ルーズ・・・などなど・・・。
性格的なことも、気性的なことも、
観念という価値観、常識的なことでさえ、
条件づけの中で生きている。
そういったことから解放されること。
これを、本当の意味で、
『自由』といいます。
わたしたちは、この”制限”をまず、
学校という場で経験していきます。
学校教育はまさに、制限をつくる場。
これが、いいか悪いかは置いておいて・・・。
わたしたちは、ここを経験し学び、体験としてインプットしていく。
そこで、早い人は”違和感”を感じるのです。
今で言えば、不登校はまさにこの”違和感”が行動にあらわれてしまった例です。
不登校はダメなことではありません。
むしろ、『勇気ある行動』ではないでしょうか。
わたしたちの時代(昭和世代)は、
『学校へ行かない』という選択肢はほとんどありませんでした。
あたりまえのように、学校へ行き勉強します。
集団生活で「右にならえ」を教わり、
”他人と一緒が安心”という謎の価値観を構築していきます。
そして、違和感のない人たちが、
それぞれに自分や相手に『鎖』をつけ、
自分を律し、他人に押しつけるという行為をしていく。
『鎖』という表現がわかりづらい場合は、
『ものさし』という表現でもいいかな。
自分が正しいと思う『ものさし』をそれぞれ持っている。
その『ものさし』を使って見るのをやめたら、
世の中が変わって見えるのかもしれない。
すべての心のフィルターを外した時、
そこに残るのは、『愛』です。
『愛』も言葉で表現するには限界がありますが、
”自由”そのものが『愛』なんだと私は感じています。
相手のためを想う。
それは、自己犠牲でそう思うのではなく、心からそう願う。
そこに、ほんとうの意味での『愛』が存在するのです。
親が子供の進路に口を挟んだり、
しつけと言って、子供に無理な押しつけをしたりするのは、
それはほんとうの意味での『愛』ではありません。
子供の意見を尊重し、したいならさせてあげる、
それで失敗したらそこから学べばいいと思う。
親は子供が失敗しないように、
いろいろと役に立つことをアドバイスしているつもりだけど、
子供のため、どころか子供の可能性を奪ってしまうのではないでしょうか。
こう選択した結果、こうなってしまった、という
自己責任を教えるのが、
親の『愛』というものです。
自分の体験談を持ち出して、
「お母さんはこうだったから、
あなたにはこうなってほしくないのよ」
という言葉をよく聞きますが、それは親の体験談にすぎない。
こうなってほしくないのは、親本人であり子供ではないのです。
その価値観の押しつけが子供の可能性を狭めてしまっているのです。
もっと子供を信じてあげたい。
究極的にいえば、
子供を信頼できないのは、
親である自分自身を信頼していないから・・・ではないかと思う。
他人に口を挟む前に、
自分自身の心を見つめてみるのもいいかもしれません。
大切な何か、を発見できるかもしれない。
親が子供にできること・・・。
作った『鎖』の存在を知り、
それを取る方法を教えてあげればいいよね。
『鎖』を作る方法を教えてしまうのではなく、
自分にかけている『鎖』の存在に気づく。
選択するのも子供自身だから。
今日も”愛”あふれる一日をお過ごしくださいませ。
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