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僕が22歳から世界一を狙うワケ

これから僕がなぜ就職を捨ててまでも、ストリートダンスの道で世界一を獲ると決めたのかを書いていこうと思います。現代社会に対する不満、自分がこれから社会に対して示したいこと、これから作っていきたい未来の社会について自分の素直な考えを書いているので、もしよければ最後まで読んでいただけると幸いです。

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「若さ」が正義な現代社会

現代のスポーツの発展は著しい勢いを感じる。科学やテクノロジーによって、効率の良い練習方法がどんどん編み出されていき、大手のスポーツの業界では選手層が年々若年化しているように感じる。

最近では、高校生で160km/hのボールを投げるピッチャーが出てきたり、16歳くらいでないと世界選手権を優勝できないような女子フィギュアスケート界になっていたりと今まで考えて見れば異様な光景が今当たり前のように起きている。

そして、それはスポーツに限らず、ビジネス業界やアート業界でも同じような流れが出てきており、学生起業家は今や普通になってしまったし、アート業界でもとんでもない若い逸材がこれからどんどんと出てくることが予想される。

どの業界でもレベルが上がっていき、よりクオリティの高いパフォーマンスやサービス、表現が見れるのは個人的にもすごく嬉しいし、若い逸材たちが日本や世界を舞台に活躍している姿はただただすごいなと思うばかりである。

ただ、その一方で、若年化が進んでいくということは比較的早めの段階からその競技もしくはビジネスやアートなどに関わっていないといけなくなることを意味するわけで、より小さいことからやっていないと一流になれない世界になっていくことを暗に意味している。

個人的な感想で実情はどうなっているかわからないが、少し前に比べて「3歳から始めました」みたいな人が多くなっているように感じていて、比較的遅くから始めた人たちが幼い頃から始めた人たちに追いつけないような世界になっているように感じている。

そんな「小さい頃からやってないと一流になれない世界」は、どこか寂しい気がしてならない。どこに生まれるかも分からない、小さい頃なんて自分でやりたいことも決められないという完全運ゲーの世界なのにも関わらず、手放しに若さを賞賛するのは少し違う気がしてならない。

まともに自分で考えられるようになるのなんて大体の人は大学生くらいからであると思うし、そこでやりたいことを見つけたにも関わらず、現実がその人を潰してしまう社会は父性が無さすぎる悲しい社会であると思う。

ただ、実際問題として、現代社会においては大学生で「プロ野球選手になりたい」と言っても、100%無理と言わないまでも本当に厳しい条件であるのは間違いない。女子フィギュアに至っては、もう手遅れだと言っても過言ではないだろう。

若さ至上主義の害悪

こういう話をすると「何事も遅すぎることはない」という反論をいただく。勿論、その言葉は正しいと思うし、僕もそれを心の底から信じている人間なのだが、現代社会において「何事も遅すぎることはない」と思うのはなかなか難しいことのように思える。

TVやニュースなどでは、どの業界でも若さに注目が集まる。「15歳中学生起業家」とか「11歳の天才小学生」といった具合に年齢がすごさを増幅させるための道具になっていて、現代社会は「若さ」を過剰評価している気がしてならない。若くしてすごくなるのは凄いことなのだが、テクノロジーの進化や情報量の増加、一般家庭の裕福度から考えれば「まあそういう早熟な子も出てくるよね」と普通に思うだけである。

これだけ「若さ」を褒め称える報道を繰り返していれば、歳をとるほど自己肯定感が低くなるのは順当な話で、「何事も遅すぎることはない」ということをどんどんと信じられなくなるのは自明の理であろう。

何も考えず、TVの報道そのままに賞賛してしまっている「若さ至上主義」のようなものへの過剰な熱狂は、結局自分の首をどんどんと締めることになっていき、自分の潜在意識に「老いていく=可能性が少なくなっていく」ということを刷り込んでいっていく結果となってしまう。

「若くて凄い」ということは確かに凄いことだと思うが、全てのパフォーマンスにおいて「若い」に価値はない。勿論、絶え間ない努力が裏であるのはわかった上で言うのだが、「若い」が表しているのは主に「その分野に才能があった」か「運が良かった」ということで、本当に賞賛されるべき「地道な努力によって結果を出した」というのは、むしろ「老いた」人たちであると思う。

目に見える結果が可能性をもたらす

こんなに若年化してしまっている世界においては、若いというステータスが飽和しているので、遅いスタートから結果を出した人の方が価値が高いだろうし、自分の頭で考えられるようになってからその分野にのめり込み、努力し、世界を股にかけるほどの活躍をする方が断然凄いことのように感じている。

100歳まで生きる可能性がある現代社会においては、若者の活躍よりも老いた人たちの活躍の方が社会に大きなインパクトを与える。モノ消費から自分ゴト消費に変わっていく世界では、今のスポーツ業界で起きているような若い子の順当な活躍よりも「自分もいけるかも」と思えるような老いた人の活躍の方が重要であると思う。

僕が今立ち向かっているストリートダンス業界も、ご多分に漏れず若年化が急速に進んでいる分野であり、Dance Factという国内最大級のストリートダンスのWebサイトのキャッチコピーは「踊れ、10代」となっているほど業界の平均年齢は若い。

現在、僕は22歳と業界によっては若く見える年齢かもしれないが、ストリートダンス業界から見れば十分「老いている人」で、ここから本格的に世界を目指すには遅すぎるくらいの年齢になっている。

だからこそ、僕は自分の体でや生き様で「スタートが遅くても戦っていけること」を結果で証明していきたいと思っている。そして、今はまだフィーチャーされていないが、ストリートダンスやフィギアスケートのような芸術とスポーツの間にあるような表現は「老いたからこそ出せる表現」があると思うので、その老いがもたらす美の可能性も示していきたい。

誰が決めたか知らないが「老いるほど可能性がなくなっていく」というワケの分からない論理のせいで、歳をとるほど希望がなくなっていく世の中は悲しすぎると思う。むしろ、経験値が溜まっているわけなので可能性は広がっていくことも十分にある。

老いを前向きに考えられる世界は確実に面白いし、老いた人たちが「大人けない」を無視して若い凄い子たちに挑戦していく姿は醜いのではなく、むしろ美しいのではないかと思う。挑戦する人もそうだが、何よりそれを美しいと思わせる空気感を持つ世界は最高に美しいのは間違いない。

その世界を実現するために今足りないのは、明らかに前例であり、誰も成しえていないから多くの人は可能性を感じられていない。だからこそ、僕はこの「遅すぎる」タイミングからあえて若い業界に飛び込んでいくことを決めたし、可能性を届けるためにも目に見える結果が何よりも大事だと思い、20代のうちにJuste Deboutという世界で最も大きいとされているストリートダンスのバトルの世界大会で優勝することを決めた。

「自分が世界を変える」なんて言うのは大変おこがましいことかもしれないが、現実という壁の前に打ち砕かれた周りの友人や世界中の可能性に溢れる老いた人たちのためにも、「遅すぎることなんてない」を多くの人が心底信じられる世界を口だけではなく、行動や結果で作っていきたい。

なんだか熱い話になってしまいましたが、この記事が少しでも皆さんの希望となっていただければ幸いです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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1997年の日本生まれ。