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自己紹介の記事を書きました

初めまして。
noteを開設してから2ヶ月以上経ったものの、自己紹介をちゃんとしていないなと思いましたので、これを機に自己紹介記事を作ってみました。
かなり長いと思うので、お時間に余裕がある時にでもご覧ください。
あと、Twitter(X)では顔写真を出さないでやっているので、テキストばかりになってしまいますがお許しください。

◎プロフィール概要

名前:ムーさん(本名 ながや ひろむ)
年齢:26歳(1996年生まれ)
出身地:北海道函館市
身長・体重:170cm・60kgくらい
血液型:B型
家族構成:自分と兄二人(両親はいません(父は3歳の頃失踪、母は亡くなっています))
趣味:ゲーム、読書、筋トレ、映画・YouTube鑑賞、X
出身大学:弘前大学人文社会科学部
勤務先:外資コンサル会社

◎小学校〜高校(浪人時代)

※すみませんが大学進学までは箇条書きで書かせてください。

小学校

・入学したての頃は、周りに知ってる人がほぼいませんでした。休み時間はなぜか一人で体育館に行っていたのですが、クラスメイトが話しかけてくれて、みんな仲良くしてくれました。
・身長が低く、いつも前から2番目か3番目でした。
・勉強が得意で、テストの点数はいつも高得点。苦手科目も特にありませんでした。
・小学3年生で野球を始めました。左投左打で外野とピッチャーをやってました。ちっちゃな大会ですが優秀選手賞をもらったことがあります。
・野球を始めた影響か、運動も得意になり、学校の運動会でリレーの選手に毎年選ばれるようになりました。
・夏休み、冬休みの自由研究は母が8割ほどやってくれていました。
・遊戯王カードやゲーム(DS)でよく友達と遊んでいました。
・小学6年生で好きな子がいましたが、大して思いを伝える勇気もない小心者だったので、実りませんでした(女子と喋るのはとても苦手でした)
・人前で喋るのも苦手すぎて、クラスの朝の会で何か喋る時はよく泣いていました。

中学校

・小学校のメンバーがそのまま同じ中学校に行くような地域だったので、変わらず友達と仲良くしていました。
・1年生の頃は、塾に通い始めたおかげで、全てのテストで学年1位を取りました。2年生以降も学年TOP5以内はキープしていました。
・当時の得意科目は英語で、苦手科目は国語でした(長文記述問題がいつも書けなくて空欄でした)
・3年生で英検準2球を取りました。
・軟式野球部に入り、3年生が引退してからはキャプテンを務めました。引退してからも家の近くで壁打ちをしていて、今でも白球の跡が壁に残っています。
・高校受験に有利だと母から言われ、やりたくなかったのですが生徒会副会長もやっていました。母が考えた原稿を演説した結果、当選してしまいました。
・文化祭でマイケル・ジャクソンのバックダンサー役のダンスを練習して、パフォーマンスしてました。
・反抗期で家族と色々とありました。
・函館市内の公立進学校を受験し、無事合格しました。

高校

・硬式野球部に入部しました。1年生の夏にベンチ入りし、地区大会で試合に出たこともあります。以降は背番号1をもらったり、もらわなかったりとピッチャー中心で活動していました。2年生の時には地区大会で優勝しました。
・一番嫌いなトレーニングは食事で、「体重増やせ」というプレッシャーのせいか、人と食事をしても喉を通りませんでした。それでも入学時の54kgより10kg以上増やすことができました。
・勉強は全くできず、授業中の居眠りはたくさんしました。1回だけ学年で下から2番目の順位を取ったことがあります(黒歴史)
・友人関係はとても良好でいろんな人と仲良くなることができました。でも恋愛はまたしもうまくいきませんでした。
・とりあえず英語が得意で野球もやっていたので、将来は高校の英語教師になって野球を教えようと思い、教育学部がある国立大学を受験。ただ部活引退後の勉強量は足りず、当たり前のようにE判定を取り、前期・後期共に不合格。母と相談して自宅浪人をすることになりました。

浪人時代

・家庭が生活保護世帯だったということもあり、お金の余裕がなかったので、1年間自宅浪人をしました。
・高校を卒業すると、自分が扶養から外れてしまい、生活保護を受けられないのでドラッグストアでアルバイトしていました。品出しをひたすらやっていました。
・高校時代は教育学部を目指していましたが、もう受験を失敗したくなかったので、少し入りやすい学部かつ教員免許が取れる、弘前大学の人文社会科学部を受験しました。もう2度とセンター試験は受けたくありません。
・地元を出て生活したいという思いもあり、北海道から青森県弘前市へ。

◎大学時代(就活開始まで)

・国際系の勉強ができるコースへ進み、英語、世界史、海外の文学、多言語(中国語)、言語学などを学んでいました。
・とりあえず軟式野球サークルに入りましたが、ゆるゆるすぎてつまらなくてやめました。
・読書が趣味になりました。学部の先生が「この学部はとにかく本をたくさん読まないとダメだ」と言っていたのがなぜか印象に残っていて、暇な時に本屋さんに行きました。とりあえずタメになる本を読もうと思い、百田尚樹さんの「鋼のメンタル」を買って読んだら、自分にはない考え方が盛りだくさんでした。もっといろんな本を読みたいと思い、自己啓発系やビジネス書などをたくさん読むようになりました。
・教員になるという考えは、安定した職についてほしいという親の思いや意向に沿うようなものであり、自分自身が100%なりたいという意思がそこにはない気がしたので、教員になることはやめました。でも何をやりたいかは特に決まっていなかったです。
・2年生になったタイミングで、たまたま見かけたちょっと意識高い系のイベント企画サークルに入ったり、地域活動系のサークルに入りました。後者の活動ではねぷた祭りに参加して、ねぷたの上側をぐるぐる回す経験もしました。
・授業料を払える余裕がなかったので、奨学金を2種類借りていました。また、授業料免除の基準を越えられるように成績も残していました。
・でも、一度だけ授業料免除の申請を忘れてしまい、口座から授業料が引き落とされ、兄からお金を借りたり、短期バイトをしてやりくりしました。早朝7時から弁当を作ったり、スーパーでお酒の売り子をしていましたがしんどかったです。
・2年生の終わり頃に語学学習のため、ニュージーランドのダニーデンへ1ヶ月の短期留学をしました。後に卒論のテーマにもつなげられそうな経験をすることができました。

◎大学時代(就活〜卒業)

※ここからは少ししっかりと書きたいので、箇条書きはやめて文章で綴りますね。

長期インターンのため、縁もゆかりもない長野県へ

3年生の夏休みに長期インターンに参加しました。
長期にした理由としては、短期で数をこなすよりも、長期で一つがっつり入り込んだ方が経験としては深いものになると思ったから。
当時は東京で働くなんて無理だと思っていたので、青森県外も含めた地方をターゲットにしました。
色々探した結果、長野県塩尻市が展開している40日ほどのインターンを見つけ、企画内容が「カフェの売上を100万円アップさせる企画を考える」というものでした。
純粋に色々やれそうだし、やりがいも見出せそうと思い、応募しました。
面接官はそのカフェの店長さんだったのですが、「応募してくれたのは君だけだよ。こんな企画内容で応募が来るとは思わなかった」とおっしゃっていました。
面接も無事通り、インターンに参加することができました。

参加してみて一番大きな気づきは、おそらく長野県に限らず、地方はWeb周りやマーケティングの課題が山積しているのではないかということでした。
店長さんがSNSの使い方を知らなかったり、Webサイトに不備があったり、そもそも売上をアップさせるという企画自体が、マーケティングができないから助けてと言っているようなものだと思いました。

このインターンを経て、「IT、Web、デジタル×マーケティングに強い人材になりたい」「数多くの人のために貢献・支援する働き方をしたい」というのが就活の軸になりました。
本当に参加してよかったなと思っています。

最後の最後に掴み取った内定

「IT、Web、デジタル×マーケティングに強い人材になりたい」という軸はどこで実現させることができるか考えたところ、東京に行って色々な人がいる環境がベストだなと思いました。
東京で働くなんて無理だと思っていましたが、無理じゃない働き方をすれば良いのではと思って、簡単に決断することができました。
マーケティングについても色々な本を読んで、独学で勉強しました。

「数多くの人のために貢献・支援する働き方をしたい」という軸については、BtoBで企業相手に支援している会社ならいいのではと思い、そういうビジネスモデルの会社をターゲットにしました。
さらにはtoBの先には消費者が必ずいるはずだということに気づき、BtoBtoCが体現されているような会社にしたいなと思いました。

選考を受けた企業は7社(確か)。
3年生の1月くらいから選考を受け始めました。
全部東京の企業で、当時は今のようにオンライン選考などはなかったので、興味がある会社の説明会や選考がある度に、夜行バスで東京へ行っていました。合計10往復しました(もう夜行バスには乗りたくありません)
でもダラダラあてもなく選考をするより、業界を絞った方がとても就活しやすいなと思いました。

とは言っても、選考は落ち続け、5月のGWが終わったタイミングで残っている選考があと1社。
ここに落ちたら会社を探すところからやり直しというタイミングでした。
その残っていた会社はググってたまたま見つけた会社だったのですが、調べていくうちにだと思いました。

また、ディレクターという職種の募集をしており、その会社の社員インタビューでディレクターが大事にすべきこととして、「目の前のお客さん(企業)とその先にいるお客さん(消費者・ユーザー)のことまで考えること」と書いてあり、まさに自分の考えていることをそのまま言語化していました。
また、会社の理念についても同じことを謳っていました。
全てがつながったようで、もうこの会社に絶対入りたい!と思い、選考に臨むことができました。

無事最終選考も終え、青森に帰ってきた翌日。
会社から内定のメールをいただくことができました。
忘れもしません、選考の翌日2019年5月27日でした。
部屋で一人、めっちゃガッツポーズしていました。
兄にも色々サポートしてもらっていたので、報告したら思わずよしっ!って叫んじゃったと言っていました。
実は最終面接の最後に「何か質問はありますか?」と聞かれた時に、「本当に第一志望でぜひ御社に入社したいと考えておりますのでよろしくお願いします!」と伝えた
ので、それも効いたかなと勝手に思っています。

ひとまず、就活を終えることができたのでとてもホッとしました。

残りの大学生活での活動(就活支援、ゼミ)

就活を終えてから、同級生から就活支援を一緒にしないかとお誘いを受け、団体に入って、後輩の就活支援をすることになりました。
ある非営利の法人に所属しながらインターンの斡旋や面談、ESの添削、面接やグループディスカッションの練習のお手伝いをするといった内容でした。
後輩もたくさんいたので、残りの学生生活で手伝えることをやって卒業するのもいいなと思って、全力でお手伝いをしていました。

そんな中、しばらく活動していましたが、まぁ色々と組織ならではの問題やモチベーションが下がるような事案がありまして、一人でやった方が楽だろうなとか残るメリットもないなと思い、その団体を抜け、個人で引き続き就活支援を続けました。
これは卒業するまでしっかりと続けました。

そしてゼミですが、「差異を失くし、共生社会を実現する」というテーマのゼミに所属し、とても素晴らしい先生の元で勉強をすることができました。
テーマは抽象的で複雑ですが、色々な社会問題に対して学生主体でそれぞれ意見を持ち、ディスカッションをするというもので、勉強にもなりましたし、何より自分らしさを表現することができるという場として、有意義なゼミでした。
卒論は、ニュージーランドでの留学時に気づいた、日本人が集団で集まる気質や技能実習制度の問題を取り上げ、これらを「武士道」という日本古来の哲学を用いて共生社会の実現につなげることはできないか、というテーマで執筆しました(5万字も書いてしまいました)

・・・と大学時代の話を長ったらしく書いてしまいましたが、そんなこんなで卒業することができ、社会人になることができました(あとゼミの活動が評価されて、卒業時に同窓会賞というものをいただくことができました)

しかし、東京へ引っ越したタイミングで例のパンデミックによって、イメージしていた社会人生活とは全く違う生活が始まりました。

◎社会人になってから

東京に引っ越した後にパンデミックになってしまったので、入社初日から在宅でPCのセットアップ、研修を行いました。
なので入社式というものもやっていないです。
最初からリモートだったので、慣れるしかない状況でしたし、否が応でも順応しました。
同期とは、夏頃に少し緩和されてから顔を合わせる機会が増えました。
あと初めて出社したのは2年目に入る二日前のタイミングでした。

2年目の秋頃に、在籍企業がグループ会社に吸収合併されたことにより、法人が無くなり、新しい在籍企業へと変わりました。
でも業務内容は特に変わっていないので、大した影響はありませんでした。(社名は伏せますが、ちょっと有名な会社に勤めていると言えるようになったのはいいことかもしれないです)

今、お仕事自体は、ディレクターという職種で様々な企業のWebサイトの運用や制作、リニューアル、画面設計、バナー制作、コピー開発などなど色々なことをやらせていただいています。
ディレクターってやること多いなと日々感じながら、業務をしています。

社会人についても紹介はそんなにないのですが、今は4年目になり、まだまだ未熟ですし、新しいプロジェクトにも入ってしばらく経つので、もっと頑張らなければと思っています。

◎今後の目標

人生のミッションとして掲げているのは、「奨学金の完済」です。
上でも書きましたが、生活保護を受けていた家庭環境の影響か、お金を切り詰めながらの生活に浸っていたので、お金に対して色々と我慢したり、頭を悩ませていました。
それは大学に進学しても、社会人になってもずっと続いていて、今も毎月数万円は返済しています。

じゃあもし奨学金を完済することができたら、その瞬間の自分ってどんな感じなんだろうと考えました。
もちろん稼いでからも色々と考えることは多いでしょうが、たくさん我慢して切り詰める必要がなくなることを考えると、今までに味わったことがない解放感に満ちている気がします。

会社にずっと勤めていれば、そのうち完済できる額のお金は手に入ると思いますが、単純計算で20年ほどかかります(途中で返済額を増やしたりしなければ)
そしてある程度固定化された給料で、昇給のタイミングも決まっているという、なんかわかってしまう未来があるということに対して違和感を感じました。

そう考えると、会社を離れてフリーで働いた方が良いのではという選択肢が出てきました。
また、兄が元々会社員だったものの、数年前からフリーでコンサルタントをやっているのですが、その姿を間近で見ていると、やはりすごいなと思いますし、そういうチャレンジングな働き方というのも取り組んでみたいと思ってしまうわけです。
おそらくですが、会社員時代よりも稼いでいると思っています。
その姿を目の当たりにすると、自分もそうなりたいと思うのも自然なことでした。

今すぐにフリーになる、というのは考えにくいのですが、おそらく30歳あたりが節目になるかなぁと思っています。
なので、それまで会社での仕事でしっかり経験を積みつつ、一人でも活動できるレベルまで自分を高めて、日々精進していこうと思っています。

◎最後に

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
だいぶ長文になってしまいましたが、これでもまだまだ足りないと思ってしまっています笑
よかったら、Twitter(X)もフォローしてくださると幸いです。

また自分のポストに関して深ぼるというnoteも書いていますので、よければご覧ください。

ありがとうございました!

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