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あの頃に書けなかった小説を、今のスキルで思い通りに描く

物書きの皆さん、オリジナルの物語を書き始めたのって、どのくらいの頃でしたか?

物語の「設定」を夢中でノートに書き溜めていた頃って、ありませんでしたか?

自分の場合、物語(…というより「おはなし」)は保育園時代、設定ノートを作り始めたのは小学生の頃でした。

特に、一番夢中で設定を書き溜めていたのは中・高時代だった気がします。

…しかし、高校時代の自分は、思うように小説を書き上げることができませんでした。

長編を「完結」させられたのは、中学時代の1作だけで…

高校時代は「設定だけは大作」ができているものの、実際に小説として書き始めると、筆が止まって書けなくなってしまう…

そんなことが多かったのです。

過去記事でも触れていることですが…↓

今にして思うと、当時の自分は「物語を書き上げるために必要なもの」を充分にそろえられていなかったのです。

小説は、自分の好きなシーンだけ、自分の好きなキャラクターだけ書いていれば良いというものではありません。

好きではなくても「物語的に必要なシーン」「物語的に必要なキャラクター」というものがあります。

また、台詞と台詞の間、場面と場面の間を上手く(自然に)繋いでいく技術も必要になります。

さらには、そんな「特に好きじゃない」「得意でもない」シーンでもモチベーションを保つ「メンタル」も必要なのです。

今になれば、あの頃の自分に「何が足りていなかったのか」分かるのですが…

当時の自分は「何が必要なのか」考えることもせず、「感性」だけで小説を書こうとしていました。

そうして、書けなくなっては中断し、別の物語を書き始めてはまた筆を止め…

小説として完成させられなかった「設定」や「キャラクター」たちが、今もネタ帳の中にたくさん眠っています。

自分は小学生時代から今まで、ネタ帳を捨てたことが一切ありません

物書きさんの中には「昔書いたネタを見ると顔から火が出るほど恥ずかしい」「黒歴史だ」という方もいらっしゃるそうですが…

自分は「それこそが、当時の自分の感性」と思い、大切に保存してあります。

小学生当時、自分は「子どもの気持ちが分からない大人にはなりたくない」と思っていました。

大人から見ると「くだらない」「つまらない」ものでも、子どもにとっては夢中になれる「大切なもの」…そういうものって、ありますよね?

きっと「小学生の感覚」は小学生にしか分からないものですし、「中学生の感覚」は中学生にしか分からないものなのではないでしょうか?

当時「好き」だったものが、今見ると「恥ずかしい」だけなのだとしたら…それは、その感覚がいつの間にか「失われてしまった」ということなのではないでしょうか?

自分は学生時代当時から既に、それが「失われる」ことの怖さに気づいていました。

なので、それを大人になってからも何とか覚えておくため、「当時の自分の感覚が分かるもの」を、できる限り保存してきたのです。

自分は、自分と同年代の「大人」だけへ向けて小説を書きたいわけではありません。

むしろ、学生時代の自分が小説に夢中になったように、学生たちをも夢中にさせる小説が書きたいのです。

そのためには「学生時代の感覚を忘れた自分」では駄目なのです。

「学生時代に考えたネタ」は、時にデタラメで、時にリアリティーをまるっと無視しています。

ですがその分、ダイナミックエネルギッシュだったりします。

その「つたないけれど、やたらエネルギーに満ちあふれたアイディア」を、黒歴史として封印するわけではなく、上手く活かしていけたら、面白いことになるのではないかと思うのです。

幸い、大人になった「今の自分」には、当時には無かった知識や技術があります。

デタラメな設定でも、何とか「つじつまを合わせる」ことができますし、足りない要素を知識と発想力で補うこともできます。

つまりは「あの頃は完成させられなかった設定」でも「今なら小説として完成させられるかも知れない」のです。

…そんな感じで「昔考えた設定を元にした小説」が、自分にはいくつもあります。

「宝玉九姫の生存遊戯」などは、最初に考え始めたのが小学生の時なので、かなり息の長い物語です…。

(小学生当時から現在までの間に、設定が二転三転したりもしていますが…。)

ただ、当時考えていたのは大陸文化の始まり(九つの国の建国)から大陸の滅亡までの、気が遠くなるような長いスパンの設定のため、小説として書き上げられたのは、まだその「ほんの一部」に過ぎないのですが…。

(学生当時に考える物語が「やたら壮大」なのって、自分だけでしょうか?「あるある」なのでしょうか?)



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