悪についての考察

 私は私自身の善悪の「感覚」を持っているが、それはしょせん「感覚」に過ぎない。だから、普遍的なものであるとか、他者に対しての権利であるとか、そういうものであるとは思わない。当然、他者には押し付けない。

 この時代の人たちは、何か絶対的な「善悪」が存在するとどうやら思い込んでいるようである。まぁそれが実際に存在するかどうかは確かめようがないのでおいておくことにするが、この世の中で「悪」と断ぜられるものの多くは、私にとって、それほど不快なものではないので、それについて弁明をしてみようと思う。(それは、私の思想が反社会的であるという誤解を生みかねないものではあるが、まぁ気にせず進めよう。私はそれほど難しいことを言うつもりはないから、丁寧に読み進めて欲しい)

 たとえば一番わかりやすい「悪」は、「犯罪」である。法律で禁止されたことを行った場合、その人間は「悪」とされる。「悪い人」と呼ばれる。
 そもそも法律とは何か。それは枠である。決まり事である。その土地に根差した、生きる上での前提条件である。それを破るということはすなわち、その枠からはみ出すということであり、それまで枠の中で尊重されていた権利を剥奪されるということでもある。
 枠(法律)そのものに対する感覚によって、その「悪」に対する意識は異なる。法律に対して「不正だ」「現実に即していない」と人々が考えている場合は「法律違反=悪」の図式が成り立たないことがあるのだ。法律はあくまで、それを承認している人の間でしか、その権威を保てない。
 犯罪を行った人間を悪と断ずるには、その前提条件として、法律は絶対的な正義であり、善悪の指標であるとみなさなくてはならない。そして、法律を決定する機関である国会や、それを判定する裁判所等を信頼するということでもあり、この国全体のシステム自体を「正義」とみなす必要がある。逆に言えば、この国に対して「不正」だと感じている人間にとって、犯罪者は「悪」ではない。中立である。
 民主主義国家において、法律は(実際のところどうかは置いておいて)国民の意思に基づいて作られている、ということになっている。ゆえに、「私は国民である」という意識が強ければ強いほど、犯罪者は「悪そのもの」に見えるわけである。しかし国民ではない人間から見ると「彼らはそう思っている」というだけであり、もっと具体的な例を示すと、私たち日本人は、他国の奇妙の法律に反した犯罪者に対して、それほど「悪」という風には思わない。シンガポールでガムを食べて罰金刑になってしまった人を、私たちは「悪」というより「おバカな人」として見る。それは私たちの法律にまつわる善悪の観念が、「国民主義的」であることのひとつの証拠となる。
 犯罪とは「われら正義たる国家に反する行いをしたもの」という意味での「悪」であり、それ以上のものではない。犯罪に対する悪感情は、あくまで集団的な防衛反応とみてもいい。それは一過性の感情であり、普遍的なものは何も含まれていない。

 さて次に「不誠実は悪である」ということを考えてみよう。私たちは約束を守らない人間を、本能的に「悪」と考える。それは個人的な関係においてもそうだし、国家間の関係においてもそうだ。他人の損失につながるような嘘を平気でつく人間も「悪」とされるし、他者に情報を隠すことによって金銭などをかすめ取ろうとすることも「悪」とされる。理由もなく他人のものを奪おうとすることも「悪」とされる。
 それは全て「不誠実さ」という印象を共通して持っており、私たちは、法律以前に、これに対して非常に敏感である。おそらくそれはどの国家内においても言えることである。
 人間同士が関わる場合において、他者に対する軽視は、常に「悪」とみなされる。いや、ここは正直に語るべきであろう。多くの人間にとって「悪」とみなされるのは「他者に対する軽視」ではなく「自分に対する軽視」である。
 自分以外の人間が騙されていても、騙した人間を「悪」だと思わない人間は多い。だが、自分が騙されるかもしれないと思うと、対象を「悪」だと人は認識する。

 それもやはり、一個の防衛反応なのである。悪というのは、「敵」とほとんど同じ観念である。と、するならば、正義とは何か。正義とは味方を守ることである。結局のところ、自らの生活を守り、豊かにするのに役立つものを人は「善」と呼び、貧しくするものや、害するものを人は「悪」と呼ぶ。
 「正義とは、友や家族を守るために戦うことである」というわけだ。


 さてここで終わってしまったら、単なる一般論で終わってしまう。「それもそうかもね」で終わってしまう。さらに進めていこう。

 ではここで、正義と悪というのは広がる観念であることを説明していく。
 自分の認識内におけるすべての他者を「味方」としたとき「敵」はどうなるだろうか? ここに「悪」という観念の広がる原因がある。

 先ほど、味方の範囲を「国家内」に置いた場合は「国民主義的な善悪が産まれ、自分自身には関係ないが、国家に反することを行った人やものを『悪』だと思うようになる」という話をしたが、その範囲を「全人類」に変えた場合、どうなるだろうか?

 さてこれが、私たちの時代の課題である。皆が考えていることだ。
「善とは何か。悪とは何か」
 私たちグローバリズムの真っただ中にいる世代は、無意識的に全人類的な所属意識を持っていることが多い。ゆえに、地球の裏側で起こっている悲惨なことに対して、敏感ではないが、意識はする。それについての、善悪も考える。悲惨なことを「どうでもいい」とは思わず「どうにかしたいけど、何もできない。悲しい」と感じることができる。それはひとつの「善悪の種」である。

 もともとの善悪の起源は、個人的な防衛反応にある、としたのを覚えているだろうか。これが広がって、家族、友達、村、民族、国家、そして今や、人類全体にまで広がっている。進んでいる人だと、地球全体にまでその所属意識を持っている場合もある。
 最初は「私を傷つける存在、それが悪である」であったのに、いつの間にか「地球を傷つける存在、それが悪である」とまで感覚できるようになっている。
 それはひとつの進歩である。私自身はそのような感覚を持っていないが、そういう感覚を持っている人たちに、私は感心している。(もっと言えば私自身はもっとも素朴な善悪「私を傷つける存在、それが悪である」しか持っていない。私は家族が害されても、害した人間を悪だとは思わない。ただ間接的に私に何か被害が被られる場合は、そうでないかもしれない)

 ともあれ私のものの見方によると「絶対的な悪」というものは存在せず、そこにあるのは「敵対的関係」、つまり戦うための材料しかないのが分かる。
「正義の反対はまた別の正義」
 というような、ちょっと笑っちゃうようなセリフが結構前から言われ続けているが、もっとふさわしい言葉がある。
「正義も悪も、それが敵対的関係である限り、全て悪である。つまり、悪の反対は、また別の悪なのである。正義というのは、悪の別名なのである」
 そこに友好的な感情や、平和的な感情があるのならば、それは正義ではなく慈悲や救済と呼ばれる。支援や信頼と呼ばれる。正義は常に敵対関係を前提としており、敵対関係である以上、その敵対的な感情を向けられた側は、それを危険であると見做し、そこから身を守るために「悪」または「正義」という感情を産み出すのである。


 善悪は本質的に、その人間の健康に根差している。それは肉体が判断することではなくて、精神が判断することであるから、しょっちゅう勘違いと失敗を犯す。精神というのは、肉体よりずっと愚かで、色んな道を歩きたがるものなのだ。精神は、不正解が好きなのだ。
 動物を見ればわかるが、肉体は本来、自分の肉体にとって好ましいもの(食料や水、世話をしてくれる親など)に好ましい反応をし好ましくないもの(天敵、毒物、生殖における同種同性等)に敵対的な反応をする。
 しかし人間は、嘘をつくことができる生き物であるし、自らの肉体を行動によって計画的に変質させることのできる生き物でもある。ゆえに精神は「今肉体にとって好ましくなくても、今後肉体にとって好ましくなる見込みのある行動」をとりたがるし、その結果としてしょっちゅう破滅していく。人間とは試行錯誤の生き物であり、あまたある善悪も、その結果なのである。

 善悪は、無数にあっていいし、各個人によって異なっているべきである。そして、それを理解したうえで、自分自身の善悪を把持し、それに従って生きるべきである。
 もしかすれば、誰かを傷つけることを「善」、誰かを守ることを「悪」と考えなくてはならないような、そういう肉体をもって生まれた人間も存在するかもしれない。私はそういう人間が存在することを、肯定する。もちろんその人間が私を傷つけようとしたら、その人間は私にとって「悪」となるから、当然敵対関係にはなるが、そうでないのならば、私はその人間が、その人間の健康に即した在り方で生きていくべきだと、私は考える。

 私は私が健康であるために、善悪の範囲を広げてはならないことを知った。つまり、自分とは関係のない遠くのものに対して、善悪の判定者であることは、目がいい人間にとって、遠くを見渡せる人間にとって、自分の体と精神を傷つける結果にしかならないことを知ったから、私の善悪は、私の意思によって、私の肉体の及ぶ範囲に限定されているのだ。

 あまりにもたくさんのものに対して「悪」を感じると、人は生きづらくなる。
 避けるものが多すぎる。攻撃しなくてはならないものが多すぎる。吐き気を感じるものが多すぎる。

 だから「悪」は、自分の健康のために、「善」のために、できるかぎり減らさなくてはならない。それは実際的な意味で「悪」と感じるものを攻撃することによって減らすのではなく、私自身の認識として「悪」だと思ってしまう範囲を狭めていく、ということである。

 言い方を変えれば「許す」ということである。「許容する」ということである。

 私たちは、毒を許容してはならない。一度や二度なら大したことがなくても、飲み続けたら死ぬものがある。死なないにしても、体が好ましくない変容を起こしてしまうこともある。
 だから、自分の身の回りの善悪に関しては、敏感であった方がいい。しかしそうでないものに関しては、できる限り意識的に鈍感であるべきだ。意味もなく消耗し、怒りを募らせ、自分自身が別の誰かにとっての悪感情の原因となってしまうことは、避けなくてはならない。
 この世には敵対関係も必要ではあるが、小さな敵対関係が多すぎると、私たちは自由に生きることが難しくなる。善悪に縛られ過ぎてしまう。


 さぁて長々と語ったけれど、今日はもう夜遅いし、眠たいのでここまでにしたいと思う。善悪に関してはもっと語れることがあると思うけれど、まぁなんていうか、説教臭くなっちゃうしね。ほどほどにしておこう。


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