見出し画像

なぜ人は自分を特別だと思ってしまうのか

 経験や他者からの評価はともかくとして、現実的な分析した場合、等身大の自分は驚くほどちっぽけであり、もっといえばちっぽけではない一個人などどこにも存在しないことがよく分かる。

 この時代、この世界においてもっとも大きな影響力を持っている人物でさえ、世界全体という大きな視野から見下ろしたとき、その存在は「いてもいなくても大差ない」というところに帰結してしまう。

 各個人にはそれぞれ異なった影響力や知名度があるし、そこにある程度の優劣を感覚的につけることも可能であろう。
 もし人を集めて何かをしたいと思った時に、芸能人であるならかなり有利だ。影響力や知名度、あるいは金とは本質的にそのように使うものであり、それは力の象徴でもある。

 そういうものを持っている人が、その人自身のことを「特別」だと思うのだろうか? いや、彼らは彼らの土俵で生きているから、他の力を持つ者たちと自分を比較するであろう。ゆえに、自分のことを「特別」だと感じることは滅多にないと思われる。どのような場でも常に主役でいられる著名人などひとりもいないのだから、彼らは彼らで、自分自身を弁えていると思われる。

 自分のことを「特別」だと思っている人間は、有能ではあるが著名ではない人物に多く見られる。
 優秀な学者や、大企業のエリート、天才的な芸術家、これらの人々の方が「自分は特別だ」という意識が強い傾向にあるように見える。

 人間に対する評価の物差しの問題かもしれない。芸能人の場合は「人気」で自分の価値を測っているから(あくまで『評価のベース』として)当然周りには同じ価値基準の中で競っているので、自分が常にトップではないということを意識することが多い。
 対して学者もエリートも芸術家も、それぞれ「何をもって『優れている』と言えるか」というのを自分の都合で決めざるを得ないから、当然自分に有利な精神的土俵に立つわけだ。
 となると、自分に敵う者が滅多にいないか、いても身近に関わることが少ないから、張り合う対象がいないので「俺は特別だ。孤高だ」と思うわけだ。

 それに、周りの人間から見ても、その人間と比べられるほどその人に近いタイプの人間がその人の周りにいないならば「彼は他にいないタイプの人間だ」という評価を与える。それをいい意味で捉えた場合、やはり「特別」という観念と適合する。

 そうして人は勘違いするわけだ。
「俺は特別だ。重要人物だ」
 態度に表さなくても、そう思っている人は意外と多い。そういう人を見るたびに、私の中にも同じ部分があることに気づく。
 自分にない醜さを、人は具体的に想像できないし、分析も難しい。私はこの勘違いについてよく知っているから、やはり他人がそれを持っているときは他の人よりもすぐ目につくし「あーあ」と思う。

「確かにあなたは優秀だ。かなり優秀と言ってもいい。でもあなたと同タイプの人間は、世界中を探して集めれば、どんなに少なくてもひとつの村ができるくらいには存在する。それでもあなたは『特別』か? 『重要』か? 『代わりはいない』のか?」

 人間は本質的に、能力だけで見たときに『特別』とされる人物はいない。何か作業をさせるだけなら、探せば他にいくらでもいる。(探すのが難しい場合、その人しかいないということはあるが、それはその人が『特別』だからではなく、『たまたま』その人しかいなかっただけである)
 ただ『特別』とされるものはある。それは意思決定による成果である。それはどのようなものであっても、その人の行動の結果であり、その人がやらなかったら起こらなかったことなので、全てにおいて『代わりはいない』のである。
 人間は行動とその結果によって規定される。行動とその結果が優れた人物こそが、人間として優れた人物であり、行動とその結果が特別であったならば、その人物は『特別であった人物』と表現される。

 現在進行形で『特別な人物』など存在しない。『この先も特別なものを残す見込みのある人物』しか存在しない。


 さて、考察はここまでにして、終わりに少しだけ願望を語ろう。
 才能のある人には行動し続けてもらいたい。その人物が特別かどうかは正直どうでもいいので、いいものを作り続けてほしい。
 難しい立場にある人にも、いい仕事をし続けていてほしい。この世には必要な仕事がたくさんある。よりよい仕事をしようと日々奮闘している人を、私は心の底から尊敬している。

 私は時々義務や責任がすごく羨ましくなる。あんなに嫌がってたのに、ないならないでちょっと生活に物足りなさを感じてしまうのだ。
 能力は使わないと意味がない。優れた能力を使わずに腐らせておくのは、なんだか自分と社会に対する犯罪であるかのように思う時がある。
 いつもあんなに個人主義的にものを言うのに、である。

 勝手な生き物だと、自分でもそう思う。
 私は特別な人間でありたいという願望を持った人間であると同時に、社会にありのままを受け入れてもらって、自分らしく貢献していたがる人間でもあるのだ。
 貢献できているのならば、それがどんな小さな成果でも、私は私を肯定できるような気がしている。
――しかし、何をもって貢献とするのか?
 それは決して簡単な問いではない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?