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自分軸と他人軸の分け方がしっくりこない(HSP談)


この半年は怒涛の半年だった。
人の怒りに巻き込まれて社員になって会社がつぶれて二回倒れて、でもよろよろと立ち上がりおじいちゃんおばあちゃんと涙の別れを続けている。

HSPは傷つきやすいと言われる。
傷つきやすいのではない。刺激に敏感なだけである。この違いがおわかりだろうか。被害者意識丸出しの人がHSPなのではない。

誰かから非難されたとする。内容より、相手の口調、顔つき、マイナスのエネルギーに毒される。こんなこと言われた、ひどい、傷ついた、憎いという方向には行かないのではと思う。

「自分が傷つくこと」に敏感な人は、私はHSPっぽくないなと思う。どちらかというと他人を傷つけたくない。自分が抑えて収まるなら我慢する。そして他人の痛みに巻き込まれる。他人の怒りに怖れおののく。繊細な人はむしろ自分が傷ついていることには鈍感になる。傷ついたと思うより、自分を罰しようとする。すべての悲劇が彼を彼女を打ちのめす。無力だと思う。無力だと思うことを傲慢だと悩む。人生の意味について深く悩む。

よく、他人軸ではなく自分軸で生きろという。そう言ってる人は本当に他人と自分の境界がわかっているのか。身体なのか心なのか。はたまた魂なのか。そもそも「自分」ってひとつじゃない。多面的で深さもある。他人軸と自分軸のふたつに分けるなんて、とんでもなくざっくりしすぎている。

例えば、他人軸で生きているとは「他人の眼を意識した判断」ばかりして自分を抑える、自分がなくなると言われる。そうではなく、他人の眼を通して絶えず自分に向いている、集中線が自分に向いている「全集中、自分」が巷で言われる他人軸だ。他人軸とは実際は「他人の反応を気にする自分の一面、軸」なのだ。鏡でありこだまであり「反響する自分軸」。ペルソナ。仮面軸。不安軸。

巷で言われる自分軸は、自分の価値観、考え、判断、自分がどうしたいか、自分を大切にすることだという。自分を掘り下げることは大切だ。何が嫌で何が好きなのか。ぶれない自分があることは生きやすくなる。でも軸が細いと結局生きづらい。こだわりが多いと生きづらい。ぶれた方がいい時もある。てゆうかぶれるのが普通。考えなんて変わって当たり前。軸なんてなくていい。丸でいい。海が理想。魚座だし(笑)。

「AでもBでもどっちでもいいよ」という人には三種類いて、「どちらかを選んで嫌われたくない」不安軸と「AでもBでもCでも本当にこだわっていない」鷹揚軸がある。そしてHSPに多いと思うのは(相手はAが好きだな、私はどっちかというとBだけどAで平和な雰囲気になればそれが一番だな)という平和軸、安心軸じゃないだろうか。嫌われたくないから、ではないので他人軸とはいえない。自分を無理に抑え込んでるわけでもない。自分が傷つきたくないから争わないのではなく、争いのエネルギーが疲れるから避けたいだけなのだ。

まあ、以前も書いたが疲れても争わなくてはいけない場面もある。それで次の段階に行く場合もある。けれどその場合はかなりの繊細さが求められる。決裂しては意味がないからだ。いや、意味はあるか。意味がないことはないか。こうやってぶれよう(笑)

なぜこういう文章を書いているかというと、HSPの人が他人軸と判断されてその良さ、美しさまで失うような「自分軸と他人軸」の判断基準をネット上で読んだからだ。

大切なのは、自分軸に変わろう、生きようと頑張るのではなく、自分と他人の境界をほぐしながら見分けながら、安心できる環境や条件を繊細に探してゆくことではないだろうか。

他人の痛み、苦しみ、憎しみにまきこまれないでいるには実際に助ける側になることで、他人だの自分だの考えなくなると思う。ささいなことでもいい。人の気持ちをわがことのように思い、全ての人、動物、命が安全で安心できる世界を願うのは、HSPの人の美点なのだから。




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