“はらわたが煮えくり返る” ような理不尽なことでも、無条件に「寛容」であるべきか?
こんにちは。
ムッチーのnoteを開いていただき、有難うございます!
ここまで4回にわたり、「寛容」をテーマに、noteに記録しながら学んできました。
まず「寛容」の “真の意味” について、自分なりの定義をし、
18世紀フランスの思想家・ヴォルテールの『寛容論』から、
🔹なぜ宗教は争いを生むのか?(『寛容論』ってどんな本?)
🔹『寛容論』の根底に流れる “思想” とは?
🔹“祈り” とは?(『寛容論』の神髄とは?)
という “問い” をいただきました。
そして、それらのテーマを通して、
✅人間の “あるべき姿”(正しい存在のしかたとは?)
を求めて、思索してきました。超ザックリと、ですけど。
そうした思索をしてきたなかで、
「 “寛容” が大切なことはわかったよ。だけどさぁ、イジメとか暴力とか差別とか、どんなにヒドい・悪いことに対しても、“まぁ人はみんな違ってあたり前なんだから、大目に見ようよ” と、広い心を持たなきゃ(寛容でなきゃ)いけないの?」
そんな、小学生が質問するような “素朴な疑問” が残ったのです。
✅そう、どんな場合でも、どんな人に対しても、無条件に寛容であるべきか?
という “問い” です。
今回は、最初に結論を言っちゃいましょう!😉
その答えは...「YES!」です。
どんな場合も、どんな人に対しても、「寛容」であるべきだと、僕は考えます。“戦争・差別のない世界を実現したければ!”
え、なぜそう断言できるの?、何を根拠にそう考えるの?
“最悪の悲劇” を想定して考えてみると...
例えば、例えばです。
自分が最も大切に思っている最愛の女性(男性)が、“通り魔に切り刻まれて” 殺されたとします。
「うわぁ~想像したくもない、最悪の悲劇!😖」なのですが、これぐらい極端な例を想定したうえで、問うてみましょう。
✅この最愛の人を殺した通り魔に対して、どういう態度・言動をとるのがベストだと思いますか?
「そりゃ、そいつを切り刻んで殺してやりたい!」おそらく誰もが、そう強く思うでしょう。
でも、実際にはそんな仇討ちはできませんよね。マフィアや麻薬カルテルの連中ならやるかもしれませんが、もしそれで復讐を果たせたとしても、完全にスッキリと心が晴れるわけではないと思います。それどころか、ますます地獄にハマるでしょう。(※Netflixの『ナルコス』を観れば、よくわかります😰)
もしくは、犯人の極悪非道さを徹底的に非難する!。いわば “言葉の暴力” で復讐するのはどうでしょうか?
週刊誌やSNSなどに投稿して、胸中を激白する。「お前なんぞ人として生きる価値はない!一刻も早く死刑判決を受けてこの世から去れ!」と。そうやって怒りを吐き出すことで、多少は溜飲が下がるかもしれませんが、それでも心が完全に晴れることはないでしょう。
結局、何をしたって、最愛の人が生き返るわけじゃありませんから。
不寛容(最悪の悲劇)に対して、どう対応すればいいのか?
最悪の悲劇の例は、もっと無数にあると思います。
・毎日、死ぬほどイジメや嫌がらせを受けている。殴られ蹴られ、カツアゲされ、しつこく罵られ...。
・毎日、死ぬほど親から虐待されている。
・肌の色が違うだけで、不当な差別や暴力を受け続けている。
・家族の一人が新型ウィルスに感染したことが世間にバレて、家に住めなくなった(風評被害)。
・某国からの空爆に日々怯えている。自分はテロリストとは何の関係もない一般市民なのに。
などなど...
では、もう一度、問いましょう。
✅そうした理不尽(不寛容)に対して、どういう態度・言動をとるのがベストだと思いますか?
結論は、先の悲劇の例と同じなのではないでしょうか?
怒りや憎しみをどう相手にぶつけたところで、酷い目にあっている当人の心が完全に晴れることはないのでは?
だとしたら、不寛容に対して、不寛容で切り返すよりも「寛容」に対応するほうが、まだ救われるのではないでしょうか?
少なくとも、さらに地獄にハマることは避けられると思うのです。
以前の記事で僕は、
「寛容」の “真の意味” とは?
他者の考えや言動に対して、気にしたり腹を立てることの “バカバカしさ” に気づくこと・悟ること
と、定義づけをしました。
そう悟ることこそが、最悪の悲劇から一歩脱して、“生” に向かう “原動力” になるのではないかと、僕は考えるのです。
※復讐は、“死” に向かう原動力です(Netflixの『ナルコス』を観れば、実感できます 笑)。
不寛容に対して寛容になれない、その “真の理由” とは?
そうは言うけどさぁ、実際に、
✅「はらわたが煮えくり返る」ような悲劇に見舞われたら、その際にわき起こる “怒りや憎しみ” は抑えきれないんじゃない?
✅もしくは、「本気で死んでしまいたい」ような悲惨な目にあったら、生きる気力を失ってしまうのでは?
あまりにもひどい不寛容に対して、そういう “憎悪の感情” や “死にたい衝動” を抑えようったって、無理だよ。
ん~、確かに。ただ、そうであるとすれば、裏返せば、そうした感情や衝動を抑えることができたら「寛容」になれる!、ともいえるのでは?
もしかして、不寛容に対して寛容になれないのは、相手(不寛容な人や状況)のせいではなく、自分のなかにわき起こる感情や衝動に支配されるから、なのではないでしょうか?
🔹最悪の悲劇に見舞われた際の「心理の動向」🔹
最悪の悲劇が起こる
例)自分が最も大切に思っている最愛の彼女が、“通り魔に切り刻まれて” 殺された
↓
言い知れぬ悲しみに打ちひしがれる
「なんでよりによって彼女を!...何の罪もない彼女が殺されなきゃいけないのか(号泣)!」
↓
犯人に対して、激しい憎悪の感情がわき起こる
「人間のクズめ! 犯人を切り刻んで殺してやりたい! 彼女と同じ、いや “100倍返し” の苦痛を与えてやる!」
↓
理性が働いて、感情を抑えようとする
「悲しく・苦しく・悔しいが、犯人に復讐したところで、彼女は戻ってこない。法の裁きに任せるしかない」
↓
しかし、憎悪の感情が強くなりすぎて、理性より感情が優位になる ➡ 感情に支配される
「それは頭ではわかっているけど、この憎悪の気持ちをどうにもおさえきれないんだ!」
以上のような流れで、心理が揺れ動いて感情に支配されると、悲劇にあった当人は、感情の奴隷になってしまうでしょう。
そうなると、「相手(犯人)が極悪非道だから成敗してやる!」といった相手の “非” による理由ではなく、自分の激しい感情を抑えることが目的になって、不寛容な言動へと突き進んでいくのではないか、と思う(推察する)のです。
感情に支配されないための極意
✅じゃあ、そうした感情・衝動に支配されないためには、いったいどうすればいいのでしょうか?
この問いについて、僕はこう考えます。
「怒りや憎悪の気持ちを抑えきれないのであれば、別に抑えなくてもいいじゃん!」
憎悪の感情を内面に抱え持ったままでもいい。要は、不寛容な言動を起こさなければいいのではないかと。
理不尽な目に遭(あ)っても寛容でいよう!ではなく、理不尽な目に遭おうが遭うまいが、
いつ何どきもどんな場合も、
他者を否定する(=不寛容な)態度・言動をとることはしない!
※もし否定的な感情がわいたとしても、
心の中にとどめて受け流す!「和して唱えず」
そのことだけを「原則(決めごと)」として守っていけば、しだいに自分の気持ち(心)が浄化されていくでしょう。
否定するのを一切やめることで、自分の心によどむ、否定的(=ネガティブ)なエネルギー(気) が自ずと排出されて、純度が高くなるからです。
閉め切った部屋の窓を “開放” すれば “換気” されて、よどんだ空気が清浄な空気と入れ替わるように。
自分の心が浄化されれば、感情に支配(束縛)されにくくなります。綺麗な心を持った自分を肯定できるからです。
そうなると、怒りや憎しみなどのネガティブな感情もひっくるめた “自分をまるごと” 受け入れられるようになります。
ネガティブな感情を無理に抑えようとしなくても、そのまま受け入れて「まぁしょうがないな」と放っておけば(受け流せば)、しだいにその感情エネルギーは弱まっていくでしょう。
脳科学的にいうと、感情とは、環境の変化によって起きる単なる生体反応なのだそうです。“汗をかくのと同じ” ようなものなんですね。だとしたら自然に消えていくものですから、放っておけばいいんですね。
どんな人間にも尊厳がある
あ、誤解のないように言っときますね。
今、述べた「すべて受け入れちゃえ」精神は、例えばイジメや虐待を受けている人に、「何もせずに我慢しようね」と言っているわけではありません。
逆に、「ネガティブな感情は抑えなくてもいい!」とおススメしているわけでして...
ですから、「イヤなことはイヤ!」とハッキリ言うことは大事だと思います。
言葉で吐き出すことは、心を浄化させるのにきわめて有効です。
とはいえ、やはり原則は、「他者を否定する態度・言動をとるのはやめよう!」です。
ほとんどの場合において、「イヤだからやめてほしい!」と、相手に直接伝えるのは逆効果になると思います。どんなクソみたいな人間にも、クソなりの尊厳があるからです。クソみたいな人間こそ、自分を否定されることを最もいやがります。※僕はかつてクソ人間だったので(今もかもしれませんが😅)、よ~くわかります。
「自分がしてほしくないことは他者にもしてはいけない」という『寛容論』の大原則にあてはめてみても、
自分が最もしてほしくないこと=「自分を否定されること」
だと僕は思うのです。なので、自分を否定されるのはイヤだ!だから他者も否定してはいけない、という結論に行き着くのです。
(この世から戦争・差別をなくそうとするならば...)
ネガティブな感情を吐き出す方法
ただ、どうしても「はらわたが煮えくり返るような、ドス黒い感情を吐き出したい!」ということであれば、とっておきの「ネガティブ感情の吐き出し法(浄化法)」があります。僕もときどき実践している(浄化の専門家から教えてもらった)方法です。一応ご紹介しておきますね。
🔹心の汚れをキレイにする(浄化する)方法🔹
1️⃣ トイレットペーパーとマジックペンを用意し、ネガティブな(ドス黒い)感情を “言葉にして書き出す”。
▼書き方の例▼
「あいつの上から目線の態度、超ムカつく!。肥溜めに頭を突っ込んでやりたいわ!」
「○○課長よぉ、いつもいつも不機嫌なツラしやがってよぉ、こっちまで気が重くなるんだよぉ!ちっとは周りに気ぃ使えよな!仕事のミスは部下のせいにするしよぉ、この能無しハゲが!どっかの僻地にでも左遷されろ!」
「俺をイジメて嫌がらせして殴り蹴って、それでお前、幸せか?俺を奴隷のように扱って優越感に浸りたいんだよな。可哀そうなやつめ。お前を殺したいと思ったけどやめとくわ。殺す価値もないクズを殺したら、俺がもっとクズになってしまうからな」
以上は、あくまで例です。ここでは誰をどう否定しても、どんな汚い言葉を使ってもOK!。不満・愚痴・怒り・憎悪など、思ったこと言いたいこと、自分のなかのドス黒い感情を “遠慮なく” どんどん書き出そう!
ただし、自分を責めるのはNG!。
2️⃣ ネガティブ感情をすべて書き切ったら、トイレに流す。
ネガティブな邪念ごと水に流されて、気持ちが浄化されます。
3️⃣ アファメーション(肯定的な自己暗示)を行う。
「これで私のネガティブな感情は、綺麗さっぱりに浄化されました!」とイメージして終わりです。
ネガティブな感情が心にたまって便秘状態になったときに、お試しください。吐き出して流せば、気持ちスッキリ心が軽くなります🙂。
今回、得られた気づき(あとがき)
以上、ちょっと長くなっちゃいましたが、自分なりの考えは、だいたい “吐き出せた” かなと思います。
決してドス黒いネガティブな内容ではないので(上記の例文以外は 笑)、トイレではなく、noteを通してネット上に流します(笑)。
いつも言っていることですが、今回書いたことはあくまで、現時点での僕の考え、または僕が採用する考えです。
もちろん正解じゃないし、特に今回書いたことは、どんな状況にもあてはまる考え方ではないでしょう。詰めが甘い所も多いですし。
「なに “綺麗ごと” 言ってんだよ!」と感じる考え方だったかもしれません。その通りです😄。自分の心を綺麗に浄化したい(➡ それが延いては世界平和につながる)と思って書いたことなので、まさしく「綺麗ごと」です。
あなたの “あるべき姿”(正しい存在のしかた)とは?・・・この不滅のテーマ(問い)について、考えるきっかけになれば幸いです🧡。
ということで最後は、恒例のムッチーによる “気づき(自分への教訓)” で締めさせていただきますね。
二本締めでいきます。「よぉ~」
💎「 “他者” を否定する(否定的な態度・言動をとる)ことは、相手に銃をつきつけるようなものだと心得よ!」(by ムッチー)
(もういっちょ!)
💎「ネガティブな感情に襲われても、そのまま受け入れて放っておこう!(受け入れられなければ、トイレに流せ! 笑)」(by ムッチー)
※長っ!(笑)
五回にわたって書いてきた「寛容論」シリーズは、今回で終わりにします。楽しく思索させていただき、実りある軌跡を残すことができたと思います。
次回からは、哲学の原点ともいえる、あのテーマについて書く予定...
※コンセプトを一新して、“別の新たなnoteに続きを書くことに” しました。ムッチーの思索noteは、今回で最終回にさせて頂きます。
最後まで読んでいただいた “寛容” なるあなたに、深く感謝申し上げます。
どうも有難うございました!m(_ _)m
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?