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ヴォルテール『寛容論』に学ぶ、“祈り” とは?

2021年が明けました。おめでとうございます。

ムッチーのnoteを開いていただき、有難うございます!


元旦に、天皇皇后両陛下による “新年ビデオメッセージ” が公開されてましたね。

天皇陛下は、メッセージの最後に、こう締めくくられていました。

今年が、皆さんにとって、希望を持って歩んでいくことのできる年になることを心から願います。ここに、我が国と世界の人々の安寧と幸せ、そして平和を祈ります。

この、純粋に平和を祈願するお言葉を聞いて、心の汚れが洗われるような “神聖” な気持ちで満たされました🧡。

天皇陛下という、全人類のなかでも、「極めて “高い視座” から “広く” 世界を捉えている、最も神に近い方(?)」の祈りだからでしょうか。心にじんわりと響きました。もちろん、人それぞれ感じ方は異なると思いますが。


新年の第一回目は、その「祈り」について考えてみたいと思います。

前回、学んだヴォルテールの思想から、さらに『寛容論』を読み深めていくための、重要なテーマでもあります。


そもそも、「祈り」って何?

いつものように、まず、言葉の意味を確認しておきますね。

「祈り」とは?
祈りは宗教現象の基本的要素として、原始宗教、民族宗教、世界宗教を問わず、いずれの宗教にも存在する。宗教儀礼は聖俗関係からみて、消極的儀礼と積極的儀礼に分類される。消極的儀礼はタブーなど聖と俗の分類を主眼とするが、積極的儀礼は聖と俗との結合を目ざす儀礼である。
祈りは積極的儀礼の代表である。「人間と人間を超えるもの(超自然力、究極的実在、神、仏など)との内面的交通、接触、対話」が祈りであり、人と人との社会的コミュニケーションになぞらえて、宗教的コミュニケーションといえる。
コトバンク 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説より-

ん~、ちょっと難解ですねぇ😅。よし!、いつものようにムッチーが、もっとわかりやすく・噛み砕いてみましょう!😉。

「この世の中は、欲望にまみれている。それでいて、自分の思い通りにならないことばかり。そんな俗世に生きていると人間は、本来の純粋な心が、だんだん汚れていっちゃう。
人間とはそうした “なる存在” 。だからこそ、そうじゃない “なる(清らかで神聖な)もの” を求めるんだよね。
それが宗教、なんじゃないかな」

「祈りは、その宗教、すなわち俗と聖をつなぐための表現。
“俗なる” 人間と、“聖なる” 存在(神仏や自然・宇宙など)との対話なのだ。
聖なる存在に対して、敬意を払い・純粋に信じ・身を任せながら、対話(精神的交流)をしていくなかで、“どうか聖なる心を分けてください” と願う。
つまり、俗なる人間が聖なる存在と調和できるよう、信頼関係を築く行為、それが祈りなんじゃないかな」

もう少しエレガント(簡潔)にまとめると😉、

「祈りとは、俗なる人間が、聖なる存在(神仏、自然・宇宙など)を純粋に信じ・頼りにすることで調和をはかり、聖なるエネルギーを分けてもらう。そのための働きかけである」

まぁ大体ですけど、そんなふうに定義すると、個人的にはシックリくるでしょうか。

かなり意訳、いや(意訳を超えた)“超訳” になってしまいましたが😅、とりあえずは、そんな感じの解釈で話を進めていきますね。


あらためて、ヴォルテールの『寛容論』って、どんな本?

『寛容論』とは、

1️⃣「カラス事件」という不条理な冤罪事件をきっかけに、思想家ヴォルテールが、正義と真実と平和への “強い願い” を込めて、キリスト教の歴史を考察・検証しながら、「不寛容」の愚かさと「寛容」の美徳を説いた

と、以前の記事ではお伝えさせて頂きました。

でも実は、その(僕が要約した)紹介文には続きがあります。

(前略)...「不寛容」の愚かさと「寛容」の美徳を説いた本であり、
2️⃣キリスト教社会の「狂信」「偏見」「誤解・曲解」による
差別・対立がもたらした残酷非道な罪に対して、神に許しを乞い、
人間たちが寛容になれるよう祈願した「請願書・神への祈りの書」でもある。

1️⃣の紹介文は、『寛容論』は “理性の書” という印象を受けますね。

しかし、2️⃣の紹介文を加えると、“宗教論” 的な内容でもあるんだなぁ、という印象が加わると思います。

つまり、

「寛容」がいかに大事なのかを、理屈(頭)でフムフムと納得できるよう説きつつ、
  ↓
理屈だけを説いても「寛容」な世界は実現できない(理性には限界がある
  ↓
みんなが「寛容」になるためには “聖なる存在”(神仏や大自然)の力を借りることも必要
  ↓
そのために “聖なる存在” に祈ろう!「どうかすべての人間が、誰に対しても寛容でありますように!」と。


『寛容論』は、そうしたヴォルテールの思想が、色濃く反映されている本なんですね。


神への祈り

実際に『寛容論』のなかで、ヴォルテールは、神(聖なる存在)にどういう祈りを捧げているのかというと...

まず、祈りの前フリとして、次のように神に語りかけます。

もしも許していただけるなら、神であるあなたに語りかけたい。
あらゆる世界、あらゆる時間の神であるあなたに語りかけたい。
無限の空間のなかで漂う虚弱な生き物、宇宙のほかの場所から存在も気づかれないようなわれわれが、あえてあなたに何かを求めるのを許していただきたい。
あなたは最初にすべてを設定されたおかた。あなたのなされた決定は永遠不動。そのあなたに、あえて何かを求めるのを許していただきたい。

-『寛容論 第二十三章 神への祈り』斎藤悦則訳より-

自分はちっぽけな “俗なる” 存在です。“畏れ多くも”、聖なる存在であるあなた(神)に願いを求めることを、どうかお許しください」

と、神に対して、最大級の敬意を表してから次のように祈ります。(一部だけ抜粋させていただきます)

人間がその本性のせいで犯してしまうあやまちには、なにとぞ、あわれみのまなざしを。そして、そうしたあやまちがわれわれに大きな災難をもたらしませぬように。

あなたはけっして、人間どうしがたがいに憎悪しあうために人間に心をあたえられたわけでなく、人間どうしで殺しあうために人間に両手をあたえられたわけでもない。われわれがつかのまの、しかし苦しい人生の重荷にたえられるよう、われわれがたがいに助けあうようにしてください。

たしかに、人間どうしのあいだにはかずかずの小さなちがいがあります。人間の貧弱な肉体をつつむ衣服のちがい、いずれも不十分なわれわれの言葉のちがい、いずれもバカげた慣習のちがい、いずれも不完全な法律のちがい、いずれも奇妙な意見のちがい、人間の目には大変な格差に見えても神の目にはほとんど大差ない人間の生活条件のちがい、また、「人間」とよばれる微小な原子どうしを区別するこまかいニュアンスの差もあります。しかし、こうした小さなちがいが憎悪や迫害のきっかけにならないにしてください。

-『寛容論 第二十三章 神への祈り』斎藤悦則訳より-

ん~、なんと視座の高い・理性に満ちあふれた・清廉な祈りの言葉なんでしょう!

初詣に行って、「どうか今年こそ、金運・恋愛運に恵まれますように!」な~んて祈るのとは、全く違いますね(笑)。


神(?)からの応答

そして、ヴォルテールは、神(聖なる存在)に祈りを捧げた後、聖なる存在から “応答メッセージ” を受け取るのです。(一部だけ抜粋させていただきます)

自然は、人間たちの全員にむかって、こう語ります。

私はおまえたち人間を、そろって虚弱で無知なるものとして生み出した。それはおまえたち人間を、この地上でほんの短いあいだ生きさせて、そして、お前たちの遺体をこの大地の養分にするためである。おまえたちは虚弱なのだから、たがいに助けあわねばならない。おまえたちは無知なのだから、たがいにものを教えあい、我慢しあわねばならない。

おまえたちがそろって同じ意見になったばあい、といってもそういうことはけっしてありえないのだが、もしもそうなったばあい、そこで反対の意見を言う者がたったひとりしかいなくても、おまえたちはそのひとを許さなければならない。なぜなら、かれにそのような考えをいだかせたのは、ほかならぬこの私だからだ。

私はおまえたちに、土地を耕すための二本の腕をあたえた。私はおまえたちに、自分で行動できるよう理性のかすかな光をあたえた。私はおまえたちの心のなかに、ひとへの思いやりを芽生えさせた。それは、おまえたちがたがいに助け合い、耐えてこの世で生きぬくためである。この芽を枯らしてはならない。この芽は神聖なものである。そう心せよ。そして、宗派どうしのおぞましい怒鳴りあいで、こうした自然の声がかき消されないようにせよ。

-『寛容論 第二十五章 続きと結語』斎藤悦則訳より-

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この応答メッセ―ジは、「神」という言葉を使わず、あえて「自然」からの語りかけという体(てい)で述べられています。ヴォルテールが信じる神は、キリスト教の唯一神とは異なる存在なので、あえて使い分けていると思うのですが、話がややこしくなってきそうなので(笑)、その辺については割愛させて頂きますm(_ _)m。

いずれにしても、人間を超越した “聖なる存在” からのメッセージという体で示されると、より重みを感じますね。何度も読み返して自分の身体に刻み込んでおきたい、気高き “真理の声” です。

ヴォルテールぐらい理性(論理的・概念的に思考する能力)を究めた人であれば、もしかしたらホントウに、そうした “真理の声” が聞こえてきたのかもしれません。

『寛容論』の神髄は、まさにこの神(聖なる存在)からの応答メッセージに込められて、結実していくのです。


どうすればみんなが寛容になれるのか?

寛容について私が書き綴るのは、ひとつの請願書です。
(中略)
やがていつかは実りがあるように、私は一粒の種をまくのです。
私たちは時が熟するのを待ちましょう。

-『寛容論 第二十五章 続きと結語』斎藤悦則訳より-

ヴォルテールが『寛容論』という一粒の種をまいてから、250年以上が経ちました。

しかし、神(聖なる存在)が俗なる人間に理性のかすかな光を与え、人への思いやりを芽生えさせたにもかかわらず、いまだにこの世から戦争はなくならないし、インターネットという情報空間上では、ディスり合い(否定し合い、けなし合い)が絶えません。

✅いったいどうすれば、すべての人間が誰に対しても “寛容” になって、この世から不毛な争いや差別がなくなるのでしょうか?
✅いったいどうすれば、すべての人間が “幸福” に生きられるような世の中が実現できるのでしょうか?

無知で俗なる僕にはわかりません😓。

わかりませんが、わからないなりに、僕はその「問い」を毎日問い続けるように心がけています。

問い続け、解決策を考え続け、自分なりの答えを導き出すことで、自分の理性(論理的・概念的に思考する能力)を高めていく

そして自分なりに表現(行動)する。こうしてnoteに書くことも、その一環なんですね。

そうやって亀のように “匍匐(ほふく)前進” しながら(笑)、かつ、聖なるエネルギーをいただくために毎朝 “祈って” います(祈ることも表現だと思います)。

何だかわからないけど、俗なる人間を超越した “聖なる存在” に対して、「世界中のすべての人々が、今日も最高に素晴らしい “良い一日” になりますように!」と。

ヴォルテールの『寛容論』を読んで、そうした「思考と祈り」を、さらに高め・深めていきたいと思いました。

聖なる “真理の声” が聞こえてくるようになるまでに!

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今回、得られた気づき(あとがき)

ここまで3回にわたって、ヴォルテールの『寛容論』から学んできました。

ヴォルテールは、理性の人でありつつ、祈りという宗教的行為も重んじる思想人だったんですね。

そこが僕にとって重要な共感ポイントでした。

理性的な “合理主義” にも、宗教的な “直観主義” にも、どちらにも偏りすぎない、とにかくバランスの取れた思想が、人々を幸福へと導き、社会に平和をもたらすのだと思います。

そういう意味で、「思考と祈り」はセットで(自分のなかに)共存させておきたいですね。お互いに高め合っていける “良きパートナー” のような関係で。


ということで、新年、第一発目のnoteは、『寛容論』の神との対話(二十三章と二十五章)を読み返しながら、おごそかな趣(おもむき)に浸って、書かせて頂きました。

最後はいつものように、ムッチーの気づき(自分への教訓)で、締めたいと思います。

💎「理性を高め、聖なるエネルギーと調和させよ!」(by ムッチー)

もうひとつ、

💎「全人類が解決すべき、スケールのでかい問いを立てて、つねに問い続けよう!(自分は無知でちっぽけな存在であるからこそ)」(by ムッチー)


以上をもちまして、『寛容論』シリーズは終わり...ではなくて、ある重要な「問い」が、気になる “しこり” のようにまだ残っているんです。

次回は、その “しこり” を取り除くべく、『寛容』のあるべき姿を明らかにしたいと思います。


※ “聖なる(神なる)” あなたへ
「まだまだコロナ不安が続くなか、あなたが私たちに与えてくれた “思いやり” を存分に発揮させてください。理性のかすかな光が、“明るい光” になるよう、お力添えください。差別や偏見・争いが起きないよう、私たちみんなが “寛容に” なれるようにしてください!」

「私たち(全人類)にとって、2021年が最高に素晴らしい “良い一年” になりますように!」


最後まで読んでいただき、有難うございました!m(_ _)m

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