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ヴォルテール『寛容論』に学ぶ、なぜ宗教は争いを生むのか?

こんにちは。

ムッチーのnoteを開いていただき、有難うございます!


前回、「寛容」とは何か?をテーマに、僕なりに考えてnoteに書き記してみたら、なんだか “心が広く” なったように思うのは気のせいでしょうか😄。

それは気のせいじゃなくて「“思い込み” が現実をつくるからさ!」

と、断定的に言ってしまうと、非科学的で空想じみてて、なんだか怪しい感じになりますが...

その言葉を “実証” するような事件が、260年前、現実に起こりました。


ジャン・カラス事件

1761年、フランスのトゥールーズ(※)という町で、長男を殺害した容疑で、父親ジャン・カラスが逮捕・処刑された冤罪事件

実際は、長男が自分で首をくくった “自殺” だったのだが、

カラス家はプロテスタント(新教徒)で、長男だけがカトリックに改宗しようとしていたため、“狂信的” なカトリック信者の連中が、「プロテスタントの家族が、カトリックに改宗する長男を “憎悪” して殺したんだ!」などと、言いふらした。

そんなデマが町中に広がり、裁判所の判事までその噂を信じ込んでしまう。

その結果、ジャン・カラスは死刑判決を下され、車裂きの刑に処せられたのである。最期まで身の潔白を叫びながら...
車裂きの刑_530×380

※トゥールーズ(フランス南西部の地域)
カトリックとプロテスタントの抗争が絶えなかった町。かつては、四千人のカルヴァン派プロテスタントが虐殺された。トゥールーズでは、その日を記念する祝賀会が毎年行われてきた。


ヴォルテールの『寛容論』って、どんな本?

その不条理な冤罪事件「カラス事件」をきっかけに、思想家ヴォルテールが、

正義と真実と平和への “強い願い” を込めて、キリスト教の歴史を考察・検証しながら、「不寛容」の愚かさと「寛容」の美徳を説いた

それが、古典的名著として名高い『寛容論』です。

って...ちょっと堅苦しいので、 “普段着に着替えた感じ” に切り替えて、もう一度要約させていただきますね(僕自身のおさらいをかねて😉)。

...長男は自殺だった。なのに、一家がプロテスタントだったというだけで、「お前らが殺したんだろ!息子がカトリックに改宗しようしたから」と決めつけて家族を犯人扱いし、父親は処刑される、という事件が起こりました。“カラス事件” と呼ばれた、冤罪(えんざい)事件です。

このトンデモ事件を知って、「そんな “メチャクチャ” なことがまかり通っていいのか!なんとか、彼ら(家族)の汚名をそそがねば!」と正義感にかられ、真実を明らかにしようとしたヴォルテール。

ヴォルテールは、古代まで遡ってキリスト教の歴史を調べ、考えをめぐらせていきます。ヨーロッパ以外の宗教の歴史も徹底的に。そうやってカラス事件の “背後” にひそむ、キリスト教社会の “闇の真実” を探り出していくんですね。

そこで明らかになったのは、

✅ 異なる宗教・宗派の共存に「不寛容」だった信者たちの狂信が、人々に悲惨な不幸をもたらした
✅ 逆に、異なる宗教・宗派の共存に「寛容」だった社会は、争いをほとんど生まなかった

ということでした。

つまり、数々の惨劇を生んだ “そもそもの原因” は、「みんな違ってて当たり前だよね」という “広い心を持てない” 人たちの「不寛容さ」にあったのです。

そうではない「寛容」な広い心をみんなが持てば、幸せな人生、平和な社会がきっと実現できます!

どうか、すべての人間が、誰に対しても寛容でありますように!...


ザックリ言えば、そういうことを書き綴っている本だと思います。

「そんな、どこの馬の骨🐴ともわからん奴が書いた解釈なんぞ、鵜呑みにできんぞ!」

おっしゃる通りです。鵜呑みにしてはいけません(笑)。

もっと “深く正確に” 内容を知りたいなら、実際に本を買って読んでくださいね😄。


『寛容論』の “核心” とは?

さらに、どこの馬の骨🐴ともわからん奴の解釈を続けさせて頂きますと、

「カラス事件」は、単なる冤罪事件ではありませんでした。キリスト教社会の狂気を端的に、わかりやすく浮き彫りにした “縮図” だったわけです。

キリスト教信者の狂信、すなわち “激しい思い込み” が、人々の理性を失わせ、罪のない家族を破滅させました。

まさに、「“思い込み” が現実をつくってしまった!」んですね。

自然の法と人間の権利、そのどちらにも共通する大原則、地上のどこにおいても普遍的な原則がある。
それは、「自分がしてほしくないことは他者にもしてはいけない」ということ。
この原則にしたがうならば、人間が他者にむかって、「お前にとっては信じられないことでも私が信じていることなら、おまえも信じなければならない。さまなくばおまえの命はないぞ」などと言えるはずがない。

-『寛容論 第六章』斎藤悦則訳より-

この警句は、『寛容論』が投げかけた核心、いわばピッチャーが投げた渾身の “決め球” だと思いました。

思い込みが、良くも悪くも現実をつくる!

思い込みが “頑な” であればあるほど、本来、平穏であってしかるべき現実を、おぞましき血に染まった現実に染めてしまう...

その、人間の心が狂気と化すことの怖ろしさを “実感” させてくれました。


ヴォルテールから学んだ思考法

あと、ちょっと視点を変えて...

以上のような、真理に迫る “核心” をどうやって導き出しているのか?

先にも書いたように『寛容論』では、過去の宗教史を徹底的に調べ上げて検証(証拠調べを)しています。

✔ ヨーロッパ以外の国は不寛容だったのか?
✔ 古代ギリシャの時代は不寛容だったのか?
✔ 古代ローマ人は不寛容だったのか?
✔ ユダヤ人は不寛容だったのか?
✔ イエス・キリストの教えは不寛容だったのか?

というような問いに対して、歴史を考察・検証しながら、事実を明らかにしていきます。

そのうえで、じゃあ
✔ フランス人(その他ヨーロッパの国)はどうだったの?

との問いを立てて、

領地の奪い合い免罪符による不当な利益、聖職者への上納金
むごたらしい拷問・火あぶり、サン=バルテルミーの虐殺などの大量殺戮
異端者への処刑、国王の暗殺など...

サン・バルテルミの虐殺_612×368

「なんと酷いことを!」と顔をしかめてしまう、数々の悪行・残虐行為が起きた事実を明らかにし、それらの源が何であったのか?を、暴き出していきます。

いわゆる「帰納法」的な思考によって “核心” を導き出しているんですね。

※帰納法とは、たくさんの事実から共通点を見つけ出して、より正確な結論を導き出す、という思考法(推論法)。

もちろん、帰納法で導き出した結論は、あくまで推論で、絶対的な正解ではありません。(そもそも、“ホントウ” の正解にたどりつける方法ってあるのでしょうか?)

しかし、人間社会にとって「寛容」がいかに大切であるか。その核心を強く訴える手法としては、めっちゃ説得力を感じました。

市井の “一(いち)思索家” として、ヴォルテールの思考プロセスは大いに参考になりました。

ただし、“膨大な知識量” と “正確な情報収集力” が求められますけど😅。


今回、得られた気づき(あとがき)

以上、ヴォルテールの『寛容論』を読んで学んだポイント(の一部)を、書きまとめてみたので、よろしければご参考に!

と、言いたいところですが、...(学ぶための)読書で大事なのは、単に噛み砕いて “要約することではなく”、そこに書かれている作者の思想を深く理解し、いかに体得する(=自分の栄養にする)か、なんですね。

そういった意味では、表面をペロっと舐めた程度の、“凡庸な” 読書記録になってしまいました。(書き手が凡庸なので致し方ありませんが😅)

あらためて、自分が無知であること、思考力・理解力が足りないことを痛感しています🤧。

気を取り直して...

では、ムッチーの “気づきフレーズ” で、最後ビシッ!と締めさせて頂きましょう(『寛容論』の “核心” を少しでも体得すべく)。

狂信(激しい思い込み)は、人間の心を狂気と化し、凶器になることを知れ!」(by ムッチー)

もうひとつ、

つねに自分の “無知” を自覚し、受け入れて、学びの糧にしよう🧡」(by ムッチー)


『寛容論』についてはもう少し理解を深めたいので、次回、また少し違う視点から考えてみます。


最後まで読んでいただき、有難うございました!m(_ _)m


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