無知の思索家が考える「寛容論」
こんにちは。
無知の思索家・ムッチーのnoteを開いていただき、有難うございます!
僕はこれまで、過ちだらけの愚かな人生を送ってきました😓。
家族を悲しませるようなことや、人の信頼を(結果的に)裏切ってしまうようなこともしてきました。
今さら悔やんでもしょうがないんですけど、せめて残りの人生は、人格を “改善” して、「少しでも悔いのないように生きて、安らかに死ねたらなぁ」と、切に思うのです。
どう “改善” したいの?
はい、できれば、人格をぜ~んぶ “改造” したいぐらい(笑)ですが、あえて一つ選べ!と言われたら、こう答えます。
「人(他者)にも自分にも、どんなときも、寛容でありたい!」
今の自分が「最も克服したい」と願うテーマ(課題)です。
もしかして全人類にとっても、“最も克服すべき” テーマかもしれません。
というわけで、今回は「寛容」をテーマに、“無知の思索家” ことムッチーが、無知なりに考えてみたいと思います。
なぜ、寛容でありたいの?
ん~なぜなんでしょう?(笑)。
自分に最も欠けているのが “寛容さ” だと思うから?
人間は本来、「自分の欠けたものを得たい!」と(理想を)求める生き物だから?
僕は、自分と違う他者の考えを、なかなか受け入れることができません。
例えば、
相手「俺の信念は、愚直に生きることかな」
僕「それはいい生き方だね」
と、口では同意しながら、「愚直って思考停止じゃねぇか、バーカ!」と、相手の価値観を否定してしまう自分がいます。
また、
相手「お前さぁ、もっと外に出て色んな人と交流したほうがいいよ」
僕「いや、僕は独りが好きなんだよ。放っといてほしい!」
と、相手の意見を素直に受け入れられない自分がいます(相手は “僕のため” を思って言ってくれているのに)。
同じように、“自分のなかでも”、自分の「こうすべき」という考えと、それを否定する “本音の自分” が反目し合っていたりします。
“べき論” vs “本音”、“論理” vs “直観”。お互いに相容れない。
椅子取りゲームみたく、一つの席を二人が奪い合うから対立しちゃうんですね。どちらかが席を譲るか、席を二つにすれば、対立はなくなるのに...
寛容でありたいと願うのは、その荒ぶる “対立” を静めて、「いつも心穏やかでありたい」から、なのかもしれません。
そもそも、寛容って何?
ここで、寛容の意味について、掘り下げて考えてみたいと思います。
※この章は、備忘録みたいなものなので、強調文字だけをサッと追っていただいて、あとは読み飛ばしてください(笑)。
まず、「寛容」の意味を辞書で調べてみますね。
「寛容」とは
・心が広くて、よく人の言動を受け入れること。
・自己の信条とは異なる他人の思想・信条や行動を許容すること。
-コトバンクより-
ここで「受け入れる」と「許容」というキーワードがポイントになるかと思うので、それぞれの言葉の意味をまた辞書で調べます。その調べた訳のキーワードの意味をまた辞書で調べる...それを繰り返していくと、知りたい言葉の “真の意味” が明らかになってきます。
言葉のホントウの意味を知りたいと思ったら、誰もが行う “探究手順” ですね。
実際に、「寛容」という言葉の意味を “探究” して(ひもといて)いくと、こんな感じになります。
「寛容」とは?(その1)
➡ 心が広くて、よく人の言動を受け入れること。
「受け入れる」とは?
➡ 人の意見や要求などを認めること。
「認める」とは?
➡ かまわないとして受け入れる(否定しない)。
「かまわない」とは?
➡さしつかえない。気にしない。
「寛容」とは?(その2)
➡ 自己の信条とは異なる他人の思想・信条や行動を許容すること。
「許容」とは?
➡ 大目に見て許すこと。
「大目に見る」とは?
➡ 人の過失や悪いところなどを厳しくとがめず寛大に扱うこと。
「寛大」とは?
➡ 度量が大きく、思いやりがあり、むやみに人を責めないこと。
「思いやり」とは?
➡ 他人の身の上や心情に心を配ること。
「心を配る」とは?
➡ 気をつける、配慮すること。
「配慮」とは?
➡ 心づかい
「寛容」の真の意味とは?
以上のように、“ひもといて” いった言葉をもとに、「寛容」の意味を “僕なりの解釈で” まとめてみると、次のようになります。
寛容とは、
1️⃣ 人の言ってることやってることを、「まぁいいんじゃない」と、気にしないこと。
2️⃣ 人の考えや行動が自分とは違っていても、「まぁ人それぞれの事情があるだろうから」と思いやって、大目に見ること。
3️⃣ 人が失敗したり過ちを犯しても、大目に見て、その人を責めないこと。
もう少し噛み砕いて、まとめてみましょう。
寛容とは、他者の考えや言動が自分とは違うなぁと思っても、「人はそれぞれ違うのがあたりまえなんだから、しょうがないよ」と、“気にしない” こと。
もし(他者の考えや言動に)腹が立っても、「まぁ人それぞれの事情があるだろうから、しょうがないよ」と “大目に見て”、その人を “責めない・非難しない・否定しない” こと。
「しょうがない」とは?
➡ なすすべがない、よい方法がないこと。
「なすすべがない」とは?
➡ どうすることもできないこと。
そんな感じで、言葉の意味を “探って・ひもといて・噛み砕いていく” と、「寛容」の “真の意味らしきもの” が見えてきます。
もちろん、人それぞれの解釈によって違ってきますが、僕に “見えてきた”「寛容」の本質は、こうです。
「他者の考えや言動に対して、気になったり腹が立ったりしたところで、他者の考えや言動はどうすることもできないんだから、気にしたり腹を立てるのはムダ。そんなムダなことにエネルギーを使うのって、バカバカしくないかい?」
その、気にしたり腹を立てることの “バカバカしさ” に気づくこと・悟る(※)こと。それが「寛容である」ことの、真の意味(らしきもの)なのではないでしょうか!?
※「悟る」とは、自分の思想・信条に “組み込む” こと。
寛容になるための心得とは?(ムッチーの暫定的な気づき)
以上、「寛容」をテーマに、僕なりの思考プロセスを、記録させていただきました。
まぁ特筆すべきものでもない、単純な力技による思索なんですけど😅、僕にはこういう作業がけっこう楽しかったりします😉。
ほんの少しでも参考になれば、また興味を持っていただければ、幸いです。
では今回も最後に、ムッチーによる気づき(自分への教訓)、いきま~す。
「寛容になりたいなら、人 (自分も含む) の言動を、気にするな!否定するな!(他者の言動に対して、否定的な気持ちがわき起こったとしても)」(by ムッチー)
と書きつつ、“新たな気づき” が降りてきたので、もうひとつ。
「いつも寛容でありたいなら、答えを固定化させるな!」(by ムッチー)
そう、答えを見つけ出そうとするのはいいんだけど、導き出した答えに固執し過ぎると、がんじがらめになってしまい、結果的に寛容じゃなくなるんですよね。なので、今回の気づきフレーズも「そうかもね」ぐらいで、サラッと読み流してください(笑)。
と、意味深(?)な問いかけを残しつつ...今回は終わりにします。
次回から、寛容論の本家・本元である、ヴォルテールの『寛容論』から学んでいきたいと思います。
最後まで読んでいただき、有難うございました!m(_ _)m
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