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ぴいぴいぴい〜訪販回顧録〜

今日、住宅街を自転車で走っていたら、清潔な明るい色の作業服を着た2人が、大きな声で話をしていた。若い方が上司らしく、白髪混じりの、人の良さそうな中年男性の部下に、「こうこう言われた時は、こう突っ込んで」「こうこう言われたら、わからないので上司に相談と言って」など教えている。住宅街で辺りに丸聞こえなのになと、心の中で笑いながら通り過ぎた。

昭和の後半、訪問販売の会社にいたことがある。住宅街を回り、当時主流だった電電公社のダイヤル式の黒電話、親子電話から、プッシュ式のホームテレフォンという高額商品、ドアフォンまでつければ30万くらいしたか、を割賦払いで販売する会社で、電電公社が民営化された直後で、案外良く売れた。

渋谷の雑居ビルの一室が営業所で、社員は50人くらいいただろうか、朝、出社したら朝礼から、班に分かれ車に乗る、各車に上司、といっても単にそこそこ成績を上げた者、が車で待機、後の者がピンポンして家を訪ねるという仕組み、脈ありならクローザー役の上司に繋ぐというのは、古くからある訪問販売のやり方だろう。

ある先輩から誘われてその会社に入った。その先輩は、今日住宅街で見た、人の良さそうな中年男性に近いものがあり、成績はよくない方、誘われた僕の方は、意外かやっぱりか、入ってすぐにバンバン売れるものだから先輩は驚いていたけれど、妬んだりはなかった。逆に僕が入って会社に貢献していることが嬉しいようだった。本当に人が良い。

下の黒のスラックスは自前、上の青い、いかにも工事人風情の作業服は会社から支給されたが、もちろん工事など出来やしない。ピンポンしてまず一言目は、大会社の名前を出し、次にやや小さく早口で代理店と加えるのは、今のテレアポと同じである。

昼間に訪ねるから、出てくるのは奥様が多く、断られる理由の多くは「主人がいないからわからない」うまく行って「主人に相談してみる」なかなか契約まで漕ぎつけないのが大半なのだが、それでも売れる人は売れるのだから面白い。

会社のホワイトボードには、選挙の当選結果よろしく、誰が何本契約を取ったか、当日、1本ごとに名前の下に花がつけられ、日ごとにグラフ化され貼り出されてあった。1日に2本、3本と決める者もいて、夕方帰ると、「ダブル、やりましたね!」「おお!トリプル、すばらしい!」など課長や所長から直々に褒められる。ところが、翌日になって「主人に反対され」とクーリングオフ、幻のダブル、トリプルなんてことも度々だった。

フィフス、1日で5本契約を取ったことがある。その頃から課長や所長から「関さんは」と目をつけられ、やがて係長に昇進した。入って3か月経った頃だったと思う。

回るのは都内の南、世田谷区や目黒区、大田区辺りが中心で、いかにもなセレブなお宅が多くピンポンするにも勇気が必要だったが、前職が六本木のディスコ勤務だったので怖いものなしだった。そこがまた良い成績を上げられた原因だろうとは、今になって思うことだが。

自動車メーカーのトップセールスマンは、やり手風のギラギラした人ではなく、一見地味で「え?あの人が?」と驚かれるという話を次長から聞いた。また、そういう感じの人は、玄関で、ペットの犬と遊んでいるうちに契約が取れるとは課長から聞いた。

たしかに契約が取れる時は、初対面にも関わらず、身の上ばなしや、世間ばなしで盛り上がりながら、「それでどんな電話機なの?料金は?もう一回説明して」と奥様から切り出されることが多かった。フィフスの日は、別棟で内装関係の仕事をしている事業所も加えて契約になり、1軒行ったら、もう1軒紹介されたというラッキーさだった。が、翌日か翌々日か、「よく考えたけど、やっぱりお断りします」会社始まって以来の1日5本契約の新記録は未達に終わってしまった。

給与は、基本給プラス歩合、10万程度の基本給に、歩合は契約1本決めて1万3千円程度だったと記憶している。稼ぎたくて入ってくるも、全然契約が取れなくてすぐに辞めていく人はざらだったが、その分入ってくる人もたくさんいた。付け加えるなら、好成績を上げ、システムを理解した上の人間は、突然辞めて、自分で会社を興すこともあったそうだが、そこは全く興味がなかった。

朝、車で出てから、夕方会社に戻るまで、1台の車に2人から4人、ずっと一緒に行動をする。休憩時間、昼食時間は決まっていて、そこでコミュニケーションをお互い取ったり、作戦を練ったりする。昼食後は皆で寝ていることも多かったけど。

夕方会社に戻ってからは、提出書類、日報などを書き、全員が帰ってくるまでセールストークの練習をする。近くの席の者と向かい合い、片方がセールス役、片方がお客役で、断られた時にどう対処するのか、いわゆる切り返しトークと言わるものだが、お客は奥様が多いので、セールス側が「ですが、奥さん」と切り返す言葉が社内のあちこちから聞こえてきて、妙な盛り上がり方をしていた。奥さん役が男の声だったから尚更である。

係長になってしばらく経った頃、同じ年頃の新人が入ってきて部下になった。大学を卒業して就職、訳ありで転職してきたそうで、頭の回転が早く、すぐに仲良くなった。始めは彼を含めて4人で回っていたが、ある時から彼と2人だけで回ることに、その頃には契約もあまり取れなくなっていたのは、業界がある程度わかり、気持ちが冷めていたからだと思う。このまま電話機を売るセールスマンでいいのかという疑問も正直あった。競合他社が現れたのか、会社全体でも売り上げは芳しくなかった。

彼と共にするようになっておよそ2週間、その日は全くアポも取れず、断られてばかりだった。自由が丘辺りを回っていた時のこと、突然、彼が「関さん、俺の家、すぐそこだから来ませんか?」と問いかけてきた。本来、業務中、そんなことは許されることではないのだが、若かったし、まあいいかと一緒に行った。当時は駐禁も今ほどうるさくなく、ある程度なら車を道に停めっぱなしでも大丈夫だった。

小さなアパートの1室が彼の住まいで、物も大して置いてない殺風景な部屋、そこでしばらく話をした。彼は長渕剛が好きで、その頃流行っていた「ぴいぴいぴい」で始まる歌を車内で口ずさんでいて、テレビを見ない僕は、それがドラマにも使われた曲で「ろくなもんじゃねぇ」というのを彼から知った。彼の部屋で、本物の歌を一緒に聴いた。

今は音楽を稼業にし、長渕剛も中島みゆきも、あれもこれもとピアノ伴奏するが、その頃の僕は洋楽、それも一部のディスコサウンドと言われたものしか知らず、全くの音楽無知だった。だが振り返ってみれば、人生の転換期、自分が変わるきっかけになった出来事には、必ず音楽の記憶が一緒に残っている。

彼は辞めると言った。それはそうだ。契約が取れなければ給料は少ない。給料は少なくても構わないと訪販の会社に入ってくる人は少ないだろう。引き止める理由がなかった。そしてなんとなく、彼が辞めるなら僕も辞めようと思った。そして辞めた。

時は1987年、日本はバブル期に入って間もない頃である。残念ながら彼の名前を思い出せない。キリッとした顔立ちのイケメンだった。今頃は何をしているのだろう。

彼と聴いた「ろくなもんじゃねぇ」を今日久しぶりに聴いた。こんな歌詞だったのか・・・その時の彼の心境を垣間見た気がした。音楽のある人生は愛おしい。24歳の遠い遠い或る日が甦った。

https://youtu.be/Rip0EHQ8720

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