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完璧さからの解放 AIに期待すること

 私は専門家ではないけれど、AIの進歩に結構期待している。それは、人間が無駄な完璧さの追求から解放されるのではないか、という期待だ。

 まずこの社会には、本当に完璧にやらないといけない、エラーが許されない仕事というものが存在する。けれども人間がやる限り、ヒューマンエラーは避けられない。だからミスを防ぐため何重にもチェック体制を整えたり、予測し得る限りのエラーが起きた際のマニュアルを準備したりして、精度を高める。でも何事にも「想定外」が付きものだということは、誰もが承知の通り。

 どうも「完璧」というのは人間には不向きなのだ。それを要求されることによって、どれだけストレスを感じるか分かったものではないし、「完璧」を遂行できなかった場合、ありとあらゆる非難を浴びせられた末自殺にまで追い込まれるという事態を見ると、もう「完璧」を要求される部分は、人間の仕事にしない方が良いんじゃないかと思えてしまう。

 判断にAIを用いることには賛否両論あるけれど、少なくとも少数の人間が、「完璧」な判断を出来なかったことに対し異常に責められる事態は回避できる。専門家だろうと、政治家だろうと、人望のあるリーダーだろうと、常に「完璧」な判断が可能ということはあり得ない。なぜなら、全ては確率の問題になってしまうからだ。より起こり得るだろう状況は予測出来ても、未来は不確定要素の塊、実際のところ100%予測出来る事柄はほんのわずか。

 アダム・ファウアーの「数学的にありえない」という本がある。10年以上前に読んだものだけれど、あまりの面白さに、最初から最後まで不眠不休で読み続けたので、今でも内容を覚えている。この本は、例え未来が予測できたとしても、それは確率の積み重ねに過ぎないということを示す格好の例だと思う。

 この主人公はある日突如、未来を見通せるようになる。ある行動を取った場合、次に起こる事柄の確率が分かってしまう。さらにそこからまた分岐して、この行動を取った場合は何%の確率で次に何が起こるか、そして行動しなかった場合は何%の確率で何が起こるか、と延々と確率が分かってしまう。そこから最善と思われる確率の組み合わせで行動を決定していく。

 周囲の人々が自分の行動に対してどう反応するか、そしてその行動が次にどんな事態を引き起こすか、何に連鎖していくかということは、確率でしか分からない。そしてその行動が正解かどうかは、判断する時には分からない。後の行動により、いくらでも結果は変わってしまうからだ。

 判断する行為は、人間にとって非常に負担がかかり、責任がのしかかる。これだけ複雑に絡み合った世界で、人間の判断と決断だけで「完璧」を追求することには無理があるように思う。

 人間が「完璧」への要求から解放されたら、不完全さを楽しめるようになるかもしれない。そもそも完璧な人間と一緒にいても少しも面白くはない。有り余る多様性が存在し、それぞれ得意と不得意があり、凸凹だから面白いのだ。子どもも大人も、もっと不完全さを楽しむ方向へ社会が広がると良いと思う。だから「完璧」を担ってくれるかもしれないテクノロジーに期待する。

 

 

 

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