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言葉が与える影響

 脳科学者の中野信子氏が、人間は成人するまでに、14万8000回もの否定的な言葉を聞かされる、と書いていた。凄まじい数字だ。それだけ来る日も来る日も否定されながら、よくまともな自尊心を保って成長出来るものだと、驚く。

 きっとこんな感じだ。 ……それ、さっき言ったでしょ。何で聞いてないの?また忘れたでしょ。どうしてお前は出来ないのかなあ。早く終わらせて。もっとよく考えろ。君に合わせるのはほんとに疲れる。よくそれで生きてこられたね。そんなやり方が通用すると思うな……。 等々々々、言葉が理解出来始めた時から、大人になっても延々と続く。

 言葉の影響を軽んじ過ぎている。これはSNSで安易に人を攻撃する言葉が、人を殺してしまう事態にまで発展することからも分かる。自身の発する言葉を、コントロールしない人が多過ぎるのだ。言葉に対する繊細さは一種の能力で、これを最大限に駆使して周囲にプラスの作用をもたらす人もいれば、人を死に追い込む人まで存在する。語彙の貧弱さと共感能力の低さが加わると、本人が意識せずとも、周囲にマイナスの影響を与えまくる。

 人間社会は、言葉に最大の権力を与えていると言っても過言ではないと思う。法律も憲法も言葉だ。交際条約も、協定も、種々雑多な契約も、全て言葉で成り立っている。もし言葉への信頼を失った場合、社会が機能しなくなってしまう。政治家は言葉を駆使して支持を得、宗教家はその言葉で信者を惹きつける。言葉なしには、国家もビジネスも個人の人間関係も成り立たない。

 様々な能力に臨界期がある、というのが通説になってきている。外国語は何歳までにやった方がいいとか、音楽教育は早い方が効果があるとか、早期教育のメリットを謳う広告に溢れている。それだけ知能発達の面で教育の重要性が主張されながら、いわゆるソフトスキルの習得にはあまり注目が集まらないように思う。知能発達に臨界期が存在するとすれば、やはり感情的知能の発達にも、同じように大事な時期があるはずだ。その時期に、適切な自尊心、忍耐力、寛容性や柔軟性など、長い人生で困難を乗り越えていく基礎力が身につくのではないか。子ども時代にどんな言葉を受け取るかというのは、相当人格形成に影響を与えるはずだ。

 例え何ヶ国語も操れたとしても、それで詐欺をやるか、人を助けるか、というのは別問題だ。歴史に残る残忍な独裁者や凶悪犯が、皆知能が低かったかというと、そんなことはない。知的能力だけ発達させても、その適用方法が不適切だと、悲惨な結果を招く。自分の能力を、生きていく上でどう最適化していくかというのは、単なる知能とは少し違う部分だ。

 一切否定的な言葉を使わないというのは、特に教育の場合、ほとんど不可能だけれど、言い方を変えてみることはいくらでも出来る。子どもに対して、とかく一言で支持するような先生は多いけれど、「やって」「遅い」「出来てない」「やり直し」…これではまるで軍隊みたい。否定より肯定の言葉をたくさん受け取った子どもたちは、社会は厳しい試練に耐える冷たい場所、と感じる代わりに、この世界は挑戦に満ちた楽しむに値する場所、と考えられるようになると思うのだ。

 日本の子どもたちの自己肯定感の低さについては、たびたび話題になる。原因の一つは、そもそも否定的表現が多い日本語の言語構造だと思うけれど、肯定する表現を大人が使おうとしないというのも原因だと思う。そしてこれは大人同士のコミュニケーションにも当てはまる。コミュニケーションは単なる情報交換や指示命令ではなく、それ自体を楽しむもの。大人同士の会話からも、子どもたちは表現を学ぶ。

 そして何より、自分が自分自身に対し、肯定出来る言葉を発することがもっと必要だ。小さい頃、子どもたちはいっぱい自慢する。「もうひらがな全部読める」「あっち向いてホイ大会で優勝した」「最強の必殺技を編み出した」等々。大人になっても自分自身に対して毎日、こうやって自分を肯定したらいいのじゃないかと思う。

 

 

 

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