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自殺と他殺の違いと違和感

人殺しは悪いことですか?と私が問いかけたとする。きっと大勢の人が悪いに決まってるというだろう。自殺も悪いことですか?と聞くと同じように悪いことだと言われるだろう。人を殺すことも自分から死ぬことも悪いことなのだ。


死ぬということはどういうことか

「死ぬ」と言っても死に方は多岐にわたる。寿命がきて安らかに眠りについたり、病気になって命が断たれたり、思いがけぬ事故で亡くなったり、まさか殺されたり、自らの意思で命を落とすものもいる。生きている限り、死ぬのだ。当たり前のような感覚だが、実際に自分の死を受け入れている人は少ない。死ぬことを怯え酷く怖いもののように受け取っている。もちろん私にとっても死が怖い。

どこからが「死んでいる」なのか

ではどのような状態が「死」であると言えようか。まずはわかりやすく、心臓が停止した状態のことを「死んでいる」としよう。しかし心停止してその後心臓が動き出した場合はどうだろうか。これも死んでいたのだろうか。その人は死んではいないが死にかけていたというのが一般的な回答だろう。ではいわゆる「脳死」の状態にある人はどうか。生命機能は維持しているが、人間的なコミュニケーションや思考することができない。「植物人間」ともい言われていたように人間でありながらも植物のようだと見てとられている。それでも人間として生きているのだろうか。それとも脳の機能が死んでしまっている状態は死んでいる状態なのだろうか。二度ともとには戻らないという明確かつ明瞭な根拠があるのであればそれは死亡したことになるかもしれない。しかし世界には脳死状態から奇跡的に復活した例もある。BBCによると2018年5月に米アラバマ州に住む少年が脳死状態から奇跡的に復活したという。彼は一度死んで生き返ったのか、生きていたのだろうか。心停止した状態の人と並べて考えれば、死にかけていたわけで生きていたことになる。つまり彼は長い睡眠をとっていたことになる。一方で免許証の裏にはドナー登録の表示を記載する欄がある。心臓が停止した後および脳が停止した後に臓器提供を希望するかという欄だ。臓器提供を希望し、脳死状態になった場合、臓器は提供される。つまり心臓が取り除かれもとに戻ることはできなくなり死亡する。これは殺人には当てはまらないのだろうか。

違和感のない殺人

臓器移植のドナー協力について反対する気持ちは微塵もない。しかしよく考えてみてほしい。ドナーとして心臓を提供したとしてその心臓の持ち主は殺されたことにはならないのだろうか。もうすでに死んでいるから?同意しているから問題ない?そうなると嘱託殺人まで肯定してしまうことになりかねない。「この薬を飲んで死ぬから心臓が止まったら念の為、トドメに心臓に包丁を刺してほしい」と言われて「わかった」と返事をした場合、包丁を持った彼は人殺しなのだろうか。もちろん一般的には前者と後者は全くもって違う状況なことは理解している。ただ一つの命が自分以外の要因から奪われるという点については同じではないか。では自分の命を差し出して救われる命があるならそれは殺人ではないということにしよう。そうすると死にたいと訴える人が病院へ詰めかけるかもしれない。病院の前で自殺をして首からドナー希望と書いてあればそれは英雄なのだろうか。ここで問題はややこしくなってくる。心臓や脳が止まっていればドナーになれる。でもその心臓や脳が止まった経緯が重要になってくるらしい。命を奪うということはどういうことなのか。

可能性に対する殺人

私たち人間は、子孫繁栄だけでなく性の喜びのためにもセックスをする。もう何が言いたいかわかっている人はいそうだが、避妊をするということはその時点で生まれてくる可能性のあった子どもを殺すということになる。映画アバウトタイムでも子どもが生まれてからタイムスリップをした際に自分の子どもの容姿が変わってしまっていた。面白いのが主人公がこれは自分の子ではないと思い、過去を再びもとに戻して元々可愛がっていた子どもに戻したという点だ。彼は可能性があった子どもを現実で一度目にし、抱いたにも関わらずその子どもを育てる選択を捨てた。一般的に考えると至極真っ当のように考えられる。生まれるはずだった子、まるでパラレルワールドのように「たられば」の世界に生まれている子どもに思いを馳せる人は少ないだろう。

子どもが「死にたい」と思ったら、親が殺人したことになるか

では、子どもができたら育てられないと考えて避妊することは、一般的なこととしよう。では”できちゃった”場合はどうだろう。赤子を堕ろすことは殺人に近いのではないだろうか。しかしまだ自分で考えたり人間的な行動をとる前と考えると可能性を殺すことになる。よって殺人とは言い難いとしよう(もちろん子どもを堕ろすことに問題の余地はないというわけではないが、ここでは割愛する)。では生まれてきて順調に育っていったものの、家庭環境が思わしくなく子どもが死にたいと感じた場合はどうだろう。育てられないとして避妊することが一般的であるのであれば、育てられないにも関わらず産むことは殺人になるのだろうか。そして子どもがその環境に耐えられず自ら死を望むことは親に殺されたことになるのだろうか。ここで意見は大きく分かれると考えられる。育てられない環境にある人は育てるべきではないからこれは親による殺人と言えるという人と、できた子どもを育てるのは親の勤めであり子どもが死にたいというようならば育てやすい社会にすべきだという人に大きく分かれるのではないだろうか。今回は殺人になるかどうかについて述べていきたいので社会福祉の点については割愛する。もちろん社会福祉が整っていて子どもを育てるのに何不自由ない環境を万人が受け取れるのであればそれは理想的だが、現実問題はお金があってもなくても育てにくい環境に日本はあるように感じる。話をもとに戻して、できちゃったった子どもが「死にたい」と思うまたは自ら命を断った場合、親による殺人になるのだろうか。例えば、DVがひどくうつ状態にあるケースでは親による直接的な殺人だと言えるだろう。一方で貧困状態で貧しい、親の転勤で友達がいないなど間接的な条件で死にたいと考えている子どもはどうだろうか。貧しくなったのは親の責任だろうか。友達ができないのは親の責任だろうか。

子どもが死にたい、ではなく親を殺したいと思ったら

最近では親の介護に疲れた、親の日々の言動に嫌気がさして殺してしまった、というニュースもよく目に入るようになった。この場合は直接的に親を殺しているので殺人になることに間違えはないだろう。ただ一つ考えてほしいのが彼ら彼女らがどうして親を殺すまでに至ったかということだ。子どもの頃からの家庭環境に要因があったのだとすればそれは親の自業自得なのだろうか。殺された親ではなくて殺した子どもに同情するのは、同じ殺人事件の被害者の方々に対する無礼になるのだろうか。

死ぬ=自分がなくなる

ここまでさまざまなケースを述べてきた。死ぬということを一つとってもたくさんのパターンがあることがわかった。いろいろな考えを示してきたが、こう考えるのが正解、というものはないだろう。一人ひとり自分の死生観や価値観を持って生きていけばいい。殺人は悪ではない、正義だ、という人がいた時に対局の人にとってはその人の存在自体が悪となる。そうやってみんな違う考え方を持っている。私は「死ぬ」ということは「自分が消滅すること」だと考える。避妊することは可能性を殺すことになるが、そこにまだ自我は存在していない。空想の世界だ。現実世界にはまだ存在していない。ドナーとして臓器を提供するのも意思表示をした時点の自分であり、心臓の停止及び脳死後は自分が自分であることを自分で確認できなければそれは死んだことになると考える。寝ている状態は呼吸が確認できるしアラームを自分で設定すれば自らの意思で起きることができる。心停止の状態は自分で復活できない、ほぼ死んでいる。もし生き延びれたとして記憶や考えが一切なくなってしまったら「私」という「自分」は死んでしまったと考える。そう考えると、死ぬということが身近に思えてくるのではないか。

死ぬことで人生をリセットすることはできないが、やり直せる

人生にリセットボタンは無い、とよく言われる。人生は一度きりだから後悔しないように生きろと。私はそれは間違っているのでは無いかと思う。例えば20年間「自分」と考えていたものが実はこの世の中にあっていないものと気づいた。社会不適合者だ。適合できないなら死のう、というのは人生は積み重ねの連続でやり直しができないからという考えに基づくのでは無いかと思う。しかし実際のところ人生は積み重ねの連続ではないと考えられる。20年間自分だと信じていたものを捨てて、新しくまた自分を組み立てていくことも可能だ。私は25年間、普通であることを自分に課し家族のために一生懸命生きるという選択をしてきた。しかしそんな自分を殺すことで自分の人生を切り拓き始めている。まだ行政や友人に頼っている部分も大きいが、今まで仕事にならないと思っていた趣味や新たな人脈から思いもよらぬ収入になったりする。自分の人生経験はつまらないものだと考えていたが、意外と面白がって話を聞いてくれる人もいる。一度自分を殺してしまえば、今は亡き友のことを語るように、過去の自分について重くなく語ることができる。人生はリセットできる。うまくいかないと思った時に何度でも。それは自分の命を断つことでも人を殺すことでもない。「自分」という積み上げてきたものを一度ぶっ壊すのだ。プライドや過去の栄光など全て捨ててまたゼロからやり直したらいい。そうすると一生懸命生きてるように見えてくる。そういう人に人は集まってくる。私はそういう世の中に、一生懸命がかっこいいと思えるような社会になればいいなと考えている。なんだかあっちに飛んだりこっちに飛んだりとまとまりのない文章になってしまった。

たかが人生、されど人生

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むしょく

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