タクシーからの風景
僕がタクシードライバーになったのは、ある年の年末のことである。
フリーランスの仕事がパタッと来なくなり、食い扶持に困っての、やむを得ぬ転職だった。
ヨロヨロと車を走らせながら、僕はさまざまな人間模様を見聞することになる。
しかし、ほとんどの客は一回こっきり。乗車から降車まで、短い時間に窺い知れることなど少ししかない。
前方の信号が青になり、背後の車から容赦のないクラクションを鳴らされれば、僕はその場から走り去らざるを得ない。
車中から見る光景に、オチは無い。
~ 母子
中年の男性と、車椅子の老婆。
乗るなり、男性の罵倒が始まった。会話の内容から、母子であることが知れる。
しかしその罵倒は、ほとんど聞くに堪えないような口調であった。
「オメェがグズグズしてっから、遅れんだろうが!」
「ところで、××はやったのかよ? ちっ、忘れてんじゃねぇよ!」
等々。
母の方はというと、表情は見えないのだが、息子がなにか毒づくたびに「うんうん」「はいはい」と、小さな声で繰り返すのみである。
行き先は、とある病院であった。朝の混んでいる時間帯だったこともあり、20分ほどかかったのだが、そのうちの半分は、罵倒が続いていたと思う。
運転しながらも、実にうんざりとする時間であった。
ようやく到着し、僕も降りて、トランクにしまった車椅子を開いたり、息子と一緒に老婆に手を貸したりしたのだが、ふと気づくと、息子の物腰が意外と優しい。
口調は相変わらずひどいのだが、母に手を添える様子や、ちょっと風が吹くとすかさず自分が盾になって「大丈夫か?」と声をかけたりする。
ふと老婆を見ると、実に穏やかな笑顔で息子を見上げていた。
二人の間には、他人には一見わからない信頼関係が、あるようであった。
そう思うと、先ほどまでの不快が、少し和らいだ。
ところで、そんな気分を一瞬にして雲散霧消させる出来事が惹起した。たぶん二人に手を貸している時に、ポケットに入れていた釣り銭用の札入れを落としてしまったのである。25000円ほど入っていたのだが、当然のごとく、二度と出て来ることは無かったのである……。
~ 女性はこわいよ
なにげにタクシーに乗ると、ひとはドライバーの存在を忘れてしまうものらしい。映画の『タクシー・ドライバー』にもあったが、後部座席でいちゃつき始めるカップルが本当にいるのには、驚いた。さすがに映画のように「本番」とまではいかぬものの、そこそこヘビーにいちゃつくことがある。
そのうち、あることに気づいた。
女性の方が、積極的なのである。
渋谷で乗せた、外国人男性と日本人女性のカップル。走り出すなり、女の子が男に派手な音を立ててキスを始めた。
初めのうちこそ、男性の方は「運ちゃんが見てるがな」みたいなことを言っていたのだが(と、思う。たぶん。なにしろ英語だったので……)、だんだんとその気になってきたのか、二人のラブ・シーンはどんどんとエスカレートしていった。
幸い、こちらがハンドルを取られる前に目的地へ到着したので、最終局面は回避できたのであった。
夜中の1時過ぎに乗せた、日本人カップル。
実に腹立たしいことに、女の子の方は高島彩似の美少女で、男の方はボクシングの出来ない亀田興毅といった態の、アフロ青年であった。
それはともあれ、当初の会話は実にたわいのないものであった。
「明日は6時出だから、寝る時間ないなぁ。でも腹減ったから、たこ焼き食べよう」
「えっ? こんな時間にどうすんの?」
「オレが作るよ。ンなの、すぐ出来っからさ」
そのあたり、実にまめな男ではある。亀田興毅のくせに高島彩似をゲットできる由縁なのかもしれぬ。
ところが前後の脈絡なく、高島彩がふと声のトーンを下げたかと思うと、とんでもないセリフを発したのである。
「今日、オ××コあるよね?」
思わず、ガードレールに突っ込むかと思った。聞き間違いか? とも思ったのだが、高島嬢は、重ねて同じ質問を男へとぶつけた。
「ん、あるある」と、亀田。
「……ダァメ、絶対その様子は、途中で寝ちゃうパターンだ」
またしても、信号機に突っ込みそうになる。
「大丈夫だってば……」と、亀田。
さすがにバカバカしくなって、安全運転を取り戻す。
二人は無事に、深夜スーパーの前で降りていった。
きっとたこ焼きを作って、伏せ字を実行できるかどうかはともかく、平和な夜を過ごすのであろう。
ああ、腹立たしい……。
~『マミー』と天使
青山界隈を流していると、外国人を乗せることがちょくちょくある。
多いのが、ベビーシッターと子供たち、という組み合わせである。なぜ「ベビーシッターと子供たち」とわかるかというと、明らかに人種の違うおばさんと子供の組み合わせが多いからである。
この日、乗せたのは、映画の『風と共に去りぬ』で『マミー』役をしていたハティ・マクダニエルのごときでっぷりとした黒人女性と、白人の幼児二人であった。
子供はお姉ちゃんが4、5歳くらい、弟がその1つ下くらいかと思われる、白人の子供特有の、天使のごときルックスの姉弟であった。
その天使たち、特にお姉ちゃんは、そのルックスに反して実にヤンチャであった。乗るなり「ギャーギャー」とふざけ回る。そして『マミー』がそれを叱り飛ばす、と、車内騒然たることおびただしかった。
しかしやがて、様子が変わってきた。
お姉ちゃんが泣き出し、おそらくはそれを気づかっているのであろう、なだめる弟、「あんたが悪いんだからね! あたしゃ知らないよ!」と突き放す『マミー』、と、なにやら不穏な雰囲気になってきた。「あんた、何やってんの!」みたいな会話は聞こえるのだが、哀しいかな、僕の語学力では詳細を理解する事ができなかったのである。
ルームミラーを見ても、『マミー』が不機嫌なのはわかったが、子供たちは小さすぎて見えない。「たぶん、騒ぎすぎて『マミー』にこっぴどく叱られて泣いてるのだろう」くらいに思い、僕はちんたらと運転を続けた。
目的地は、某アメリカン倶楽部であった。
到着して振り返って、ようやくお姉ちゃんの泣いている訳がわかった。
どうしたわけの訳柄だか、後部シートの安全ベルトに、がんじ絡めになっていたのである。その絡まりぶりは「亀甲縛り」と言ってもよいほどで、いったいどういう行動をしたらここまで絡まれるのやら、理解できぬほどであった。しかも、乗ってきた時には着ていたはずのワンピースも脱げていて、パンツ一丁になっている。
着いた場所がアメリカン倶楽部だったので、ドアマンもいたのだか、あまりの状態に、あっけにとられているだけである。
僕もあっけにとられたが、取りあえず、「ちょっと待ってね、今なんとかしてあげるから」と言って、運転席から後部座席へと走った。もちろん日本語で言ったのだが、『マミー』は日本語がわかるので、お姉ちゃんに通訳してくれた。
お姉ちゃんは、ベソをかきながらもおとなしく、「後ろを向いて」「2回前回りをして」などという、僕の指示に従ってくれた。もちろん通訳してくれたのは、不機嫌極まりない『マミー』である。
そして、彼女をひっくり返したり、回転させたりと、僕も手を貸しながら汗だくで格闘する事、10分。なんとか、お姉ちゃんの緊縛を解く事に成功した。
『マミー』は、「運ちゃん、メンドーかけたねぇ」みたいな事を言って、ねぎらってくれた。ねぎらってはくれたが、別にチップはくれなかった。
お姉ちゃんは、『マミー』にもとどおりワンピースを着せてもらい、まだ半ベソのまま、消え入りそうな声で「せんきゅー」と言ってくれた。
弟は少し離れたところから、そんな姉を「バッカじゃないの」という顔で見ていた。
さて、三人が倶楽部内へと消えた後、ずっと堪えていたのであろう、ドアマン二人は腹を抱えて笑い崩れ、「いやぁ、大変だったね!」「よくやった」……みたいなことを言って、僕が車を端によせて、しばし休憩するのを許してくれた。
その翌々日、全身が筋肉痛だったのだが、「ああ、歳を取ると、若いころと違って、筋肉痛は中1日空けてからくるんだよな……」と、妙な感慨を覚えたのであった。
~ 男と女
深夜、もうほとんどひとけも無くなった繁華街でのこと。ひとけが無いということは、当たり前だが、客もいない。場所を変えようか、今日はもう面倒なので早上がりしようか、などと考えつつ、ダラダラと流していた時のことである。
僕の少し前を走っていた空車を止めた、カップルがいた。
当然二人で乗り込むものと思い、ユルユルと追い越そうとした僕の車を、男性が飛び出すようにして止めた。
前車には、女性のみが乗ったのであった。
しかも男性は、僕が後部扉を開くよりも早く、自ら助手席を開けて、飛び乗ってきた。
すでに、女性を乗せた前車は、走り出している。
あっけにとられている僕に、男性は、「あの車の後を追って!」と、告げた。
前車はすでに、数十メートル先である。
「早く! 早く! 見失わないで!」と、男性。
僕も慌てて、車を発進させた。
幸いにもそこは、かなり先まで見通しのきく直線道路であった。
「えいっ!」と加速し、僕の車はすぐに、前車に追いつくことが出来た。
ところで、僕はいつも助手席に、料金箱や地図を置いている。したがってその時は、いずれも男性の尻の下であった。別に壊れるものでもないので僕は構わないのだが、客に地図や料金箱の上に座らせたままというわけにもいかない。前車に追いついたおかげで、男性も少しく落ち着きを取り戻したかに思えたので、相手を刺激せぬよう、さりげなくアピールしてみた。するとその男性は、じっと前車を見据えたまま、僕が料金箱と地図を引っ張り出すのにあわせて、一応、尻を持ち上げてはくれた。
しかしその動作で、男性もようやく、我に返ったようであった。
いささか恥ずかしそうに、「前の車に乗っているのは妻で、ちょっと飲み過ぎて、ケンカしてしまったのだ」と、説明してくれた。
しかしその目は、前車を見据えたままである。
前車は特に飛ばす風でもなく、とある幹線道路を左折した。
僕の車も、遅れをとらぬよう、後に続いた。
走ること、数分。前車が停車した。
「離れて停めて!」という男性の指示に従い、僕の車も、前車から10メートルほど離れたところに停車した。前車では、車内灯がつき、料金の精算をしているようであった。メーターを見ると、1000円ちょっとであった。
僕がその料金を告げると、男性はサイフから1000札を2枚取り出し、しかし僕には渡さず、前車の様子をうかがっている。
なかなか「妻」は、降りてこない。
男性は、「妻」が再び走り出した時のために、いつでも料金を払える体勢だけを取って、待っていたのである。
僕も、2000円からの釣り銭をいつでも渡せるよう、スタンバイして待った。内心、「釣りはいいから!」と、降りてくれるのを期待していたのは言うまでもない。このあたり、我ながらいささかセコい。
きっと「妻」は、かなり酔っていたのであろう。かなりの時間をかけて精算をすませ、ようやく彼女は、前車から降りた。
それを見た男性は、ようやく僕に2000円を差し出した。そして2000円を差し出した手は、そのまま、釣り銭を受け取る形へと変化した。
しかしその間も彼の目は、「妻」から離れることは無い。
右手を「ちょうだい」の形にしたまま、彼の目は「妻」を追い続けた。
そして「妻」はと言うと、車から降りると、なにやら大声で歌いながら、クルクルと踊り始めた。膝たけほどのフレアスカートをはいていたので、右へ左へとクルクル回るごとに、パンツ丸見えの状態であった。その歌声は、窓を閉めてある僕の車の中にまで聞こえてくるほどであった。もっとも、「あーあーあー」としか聞こえず、なにを歌っているのかまではわからなかった。
このとき、僕は生まれて初めて、「目覚めていて歯ぎしりする人」を目撃した。
男性は、「ちょうだい」の体勢のまま、ギリギリと歯ぎしりをしたのである。顔を見ると、「怒り」とも「悔しさ」ともつかぬ、異様なほどの苦悶の表情であった。
少なからずおっかなくなり、僕は彼の「ちょうだい」に、ジャラジャラと釣り銭を乗っけた。
彼は釣り銭を握りしめると、無言のまま、車から飛び出していった。
「妻」を乗せていた車は、とうに走り去っている。
なにはともあれ、事の推移を見逃す手は無い。
僕は、料金をしまったり、先ほど男性の尻の下から移動させたものを戻したりする振りをしながら、二人の様子をうかがってみた。
男性は、降りてすぐのところにあった電柱に身をひそめて、「妻」の様子を見ていた。そもそも電柱の陰に、人間が隠れられるわけがない。人間は、電柱よりも幅が広い。
「妻」は明らかに、彼の存在を意識しているようであった。さらに激しく、歌い踊り始めた。
男性は電柱の陰から、「妻」に向かって手を差し伸べた。まるで、映画の『ウエストサイド物語』で『トゥナイト』を歌う、リチャード・ベイマーのごときポーズであった。ちなみに当の男性は、リチャード・ベイマーというよりも、唐十郎にそっくりであった。
「妻」はそれを見て、高らかに哄笑した。
その様はすでに、キテレツなアングラ芝居のようであった。
なんだか急にバカバカしくなって、僕はその場から走り去ったのであった。
~ パコパコ券
白い杖の青年、いま風のちょっとかわいいの女の子、そしてこれまたちょっとイケメンの青年といった三人連れを乗せた。
会話から察するに、盲目の青年と女の子は、兄妹のようであった。人を見かけで判断してはいけないが、妹はその現代的な見かけとは裏腹に、福祉関係の仕事をしているらしかった。そして、イケメン青年は二人の友人で、妹の彼氏ではないようであった。
さて、乗ってきたのはよいのだが、どうやら、盲目の兄は乗り気ではないらしく、「オレは帰るよ」と、繰り返していた。
妹とイケメン青年の目指していたのは、某歓楽街の、クラブなのであった。
「明日、早いしさぁ」「あんま、そう言うとこには、興味ないしさあ」と兄は、明らかに乗り気ではなかった。
それに対して妹と青年は、大乗り気で、渋る兄の説得を続けた。
「クラブで『飲み物をおごる』って言ったら、たいていの女の子はついてくるよ!」と、妹。
「そうそう、入れ食いだよ! オレ、今夜は帰らないかもよ!」と、青年。
ここで、「ちょっと待て」と、兄。妹に向かって、「じゃあお前も、飲み物をおごられたら、誰にでもついて行くのか?」
痛いところを突かれた妹、一瞬ぐっとつまるも、すぐに持ち直す。「そりゃ、100%ってわけにはいかないよ! あたしだって、相手を選ぶわよ。でも、確率は高いんだから!」
「そうだ、そうだ」と、青年。もとより三人とも酔っているので、会話の論理的展開があるていど成立していたのは、この辺りまでである。以降、妹と青年の主張は、「行っちゃえ、行っちゃえ」と、単なる押しの一手となる。
二人の熱意に、徐々に兄もその気になってくる。
「……じゃあ、ちょっとだけ、行ってみようかな……」
そこへすかさず妹、「そう言えば、福祉券が余ってるんじゃない? 使っちゃおうよ!」
ご存じない方のために少しく説明すると、身体障がい者に対して毎年、市や区から、「福祉券」という、タクシー乗車用の金券が交付されており、彼らの移動補助となっている。ところがこれの使用期限が、毎年三月末なのである。いきおい三月に入ると、これを使ってタクシーを利用する人が増える。せっかくなのだから、無期限にしてあげればよいとも思うのだが、なぜか、わざわざ使用期限を設けているのである。
ちなみにこの話は三月末の出来事で、妹は、兄の福祉券が余っていることを知っていたのであった。
話を戻す。
妹の発言に、少しく動揺する兄。「えっ? でも、福祉券で遊びに行くのって……」と、急に醒めてしまう。
「しまった!」という感の妹。
しかしここで、青年がネバリを見せる。「ヤリたい」一心になった時の男は、異様なネバリを発揮するのである。
「いいんだよ。障がい者だって、福祉券を使ってどんどん外に出て行かなくちゃ! どんどん外に出て、どんどん遊ばなくちゃ!」
なんだか、妙に説得力のあるセリフである。運転しながら聞いていた僕も、「おや、いいこと言うなあ」と、少しく感服してしまう。
「……そうかな」と、兄。
「そうよ! 兄さんも福祉券を使って、女遊びのひとつもしなきゃ!」と、妹。
「そうだ、パコパコしなきゃ!」と、青年。
しかしまだ「『福祉券』で、『パコパコ』って……」と、若干および腰の兄。
ここでまたしても青年が、踏ん張った。
「『福祉券』じゃなくて、『パコパコ券』だと思えばいいんだよ!」
「そうだ! 『パコパコ券』だ!」と、妹。
「パコパコ券だ!」
「パコパコ券よ!」
車内は、「パコパコ券!」の合唱となった。
……そして兄も、ついにそのカオスに飲み込まれた。
「そうだな、『パコパコ券』だな!」
車内が「パコパコ券! パコパコ券!」と、すでに意味不明なシュプレヒコールに包まれた頃、車は目的地へ到着した。
当然のごとく運賃は、「パコパコ券」で支払われた。
降り際、突然、常識人に戻った妹が「すみませんねぇ、うるさくて」と、謝ったのだが、すでに僕も心の中で「パコパコ券! パコパコ券!」と一緒に騒いでいたので、ニコニコしながら「楽しんでください!」と、送り出したのであった。
※プライバシーを考慮し、文中の登場人物や地名には脚色を加えてあります。