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はじめまして。アロマセラピストであり、リアルクレヨンしんちゃんの母であり、WEBは素人なのにいきなりECサイト「MUSE NEST」(まだちゃんと機能していない)を開設したオーナーの近藤です。

→こちら、新店舗「和精油のある暮らし」に移転しました。

最近では、昨年ぐらいから「実店舗型のビジネスは衰退していく」と感じていたので、コロナが流行り出してから危機感を覚え、和精油を世界にECで越境させるという構想で「JAPANブランド育成事業等助成金」の申請をただのイチ主婦が申請したり、マルチライファーズクラブの仲間と楽しくZOOMで話したり、知人の義実家が高級フルーツ店と言うことでコロナウイルスの影響を受けて大打撃。それはいかんということで、「高級メロンだとか高級苺とかを格安で買えるよ」などと宣伝する活動などをしております。

「何してる人なんですか?」と聞かれて答えに窮するようになってきました。。。たぶん、ベースは母業です。

どんな人なのか(昭和生まれの女)

1982年生まれ、大阪府で生まれ育ちました。生粋の大阪人のはずですが、両親が北陸と九州から大阪に来てウン10年の人たちなので、「お仕事モード」をしていた時は「大阪の人っぽくないですね」とよく言われました。自分自身では、「ちょうど真ん中をとって関西人の顔になったようです」などと自己紹介の時に言っております。

個性豊かな子どもたちが集まる某小学校〜高校に通い、いわゆる「コギャル」時代を経験しました。ルーズソックスは1800が好みでした。(通じる人には通じますかね?)

校則が「下駄を履いてきてはいけない」しか無いという噂の自由な校風で、金髪に近い茶髪の受験生でしたので、地元の駅で塾帰りだったにも関わらず、通りすがりのおじいさんに「こんな時間まで高校生が遊んでたらアカン!」といきなり怒られたことは鮮明に覚えております。

その後、塾が性に合わないので、晩ご飯を食べながら片手に問題集を持ち、ほぼ独学で無事、某女子大に公募制推薦で合格。学年で一人だけセンター試験を受けていないという事実をPTA総会で母親が聞いて「アンタのことやないの!」と言われるような娘でした。

両親共に芸術系で、「なんか浮世離れしてて生活力がないタイプの芸術家」だったので、反面教師として、私と弟は普通に就職できる道を選びました。小学生の頃の夢は「漫画家になること」中学生の時は「美術部部長」高校の入学面接で「芸大に入ってイラスト専攻します」と校長先生に宣言したにも関わらずです。あの時、期待させてしまった校長、教頭、すみません。違う形で何かを成し遂げたいと思います。

大学ではよくありがちな「何しに大学へ?」というような学生でした。日本語日本文学科でしたので、そこで様々な文学作品や言語学、教育について学べたのは楽しかったです。しかし、いざ就職となるとスキルも何も無い。漢検2級ぐらいです。当時結婚するかも知れなかった事情で「他府県への転勤の無い得意分野で短期勝負!」と考え、日本文化が好きなので和菓子製造販売会社に就職。百貨店の販売員となりました。なんと、ここでの和菓子販売員の経験が今のお仕事と繋がるとは夢にも思いませんでした。そして結婚は無しに(笑)

原因不明の発熱で緊急開腹手術へ

百貨店のテナントの販売員と店長を経て、転勤の縛りもなくなったので、もともと好きだった広告に関わる仕事をしたいと思い、「未経験可」と書かれた会社に応募。言わずもがなの厳しい(つまり離職率も高い)営業職に就きました。

今はもうだいぶマシになっている(?)とのことですが、当時の広告業界はブラックで・・・職場から近所の松屋に晩ご飯を買いにゆき、「ポーン♪ミッドナイトタイムをお知らせします」なんて、ラジオからよく聞いたものでした。不思議なのは、遅くまで残っているのはほとんど女性社員。みんな順番に体を壊していき、アガサ・クリスティのように「そして誰もいなくなった」のです。(生き残った同僚はいつまでも元気でいて欲しいなぁと思っています)

20代の終わり頃、突然高熱が出て、インフルエンザでもなく原因不明。1週間高熱が続き、面白いほど解熱剤の効果が切れたタイミングがわかる状態でした。レントゲンを撮ると腹部が濁って見えるとのこと。「あなた、お腹痛くないの?虫垂破裂とかしてない!?」と聞かれるも、熱以外は何も症状がないのです。ただ、もう体力の限界でした。「今から緊急手術ができるところに搬送します」そう言われ、救急車で病院から病院へ運ばれました。

この時、私はメガネに高熱で憔悴しきってお風呂も入れずズタボロ。ところがなんと、救急車に乗っていたパラメディックのお兄様方が全員イケメンという悲劇を経験しました。(うーん・・・よりによって3人ともイケメンて・・・)と心の中でツッコミながら、付き添ってくれた母親がパニックに陥っていたので、ズタボロの本人がバイタルと経緯を冷静に報告するという、なかなかシュールな車中でした。

着いた病院では外科チームが待機していて、なぜかまた救急医療チームの医師までイケメン。こうなったら当時、私は幻でも見ていたのでしょう。

「原因が婦人科にあるかも知れませんから、念のため内診しますね」と婦人科の医師(おじさん)に”まな板の上の鯉”状態で”色んな内診”をされ、「何かあるなぁ・・・」とのこと。「今(お腹を)開けへんかったら敗血症とかで死ぬかもしらん。死ぬより、手術した方がマシやろ」と。

そのまま7枚程度でしたでしょうか。「死んでも文句言いません」みたいな内容の書類にサインをし、ササーっと運ばれ、母とろくに話す時間も無いままメガネも外されて、何も見えないまま手を振り手術室に入りました。(もし手術が失敗してたら、と思うともうちょっと待ってくれても良かったと思います・・・)人はここまでピンチになると逆に変に冷静になるもので、手術台に載せられても緊張することはありませんでした。麻酔が効くと・・・目覚めた時に、あっという間に起こされた感が半端なかったですね。しかも、筋弛緩状態で手が動きません。ピンチです。「あ、ヤバイ。筋弛緩や」とか言わないで。聞こえてるで💢しかも管を喉に入れられていたのでえずくえずく・・・(泣)

手術の後に待っていたものは

とりあえずICUにて一晩様子見。「痛みが酷かったらこのボタンを押してくださいね」といわれても。モルヒネのボタンを渡されても、どのぐらい痛かったら押していいものか分からない。そして押してもモルヒネ効いてます?というぐらい痛い。熱がしんどい。眠れない。何度も眠れたかな?と思ってもまだ夜が明けてないから時間が立っていないのが分かるという状態です。そりゃそうですよね、武士の時代なら切腹したわけですから。

ICUから一般病棟へ移り、婦人科系の「何か」が感じられたため婦人科病棟に入院することとなりました。手術の結果は「復水はきれいで、虫垂にも異常は認められず、閉じておきました」とのこと。え???それ、腹腔鏡手術で良くなかった???これを私は「オープンシャッテン事件(Open shut them)」と呼んでいます。

しかし、その後、弟が「これでも読んで気を紛らわしとけ」と差し入れしてくれた「クレヨンしんちゃん」を読んでいたら・・・何か息苦しい。あれ?何か息苦しい。原因不明の呼吸困難に陥りました。ナースに苦しいと訴えてから呼吸器科の先生が現れたのは何と6時間後・・・そして「レントゲンを撮ってみましょう」この流れからいうと、骨折とかの時にやる”寝たままパシャッ”と撮るのかと思いきや、「立ってください」と。えーーーー!!!内臓もれます!!!痛いし腹筋も断裂しているわけですから本当にスプラッタになるんじゃないかと思いました(涙)何とか撮り終えたら「・・・肺に水が溜まっていますね」とのこと。「!?」原因を聞いても「・・・わかりません」えええーーー!!!とりあえず酸素供給の管をつけられても、あんまり変わりませんでしたが、自力で肺をポンプにだと仮定して動くと少しずつマシに・・・一体何だったのでしょう。

そして夜が明け、巡回の看護師さんに「あのー・・・昨日は賑やかでしたね。マルマルモリモリのコンビ(芦田愛菜ちゃんと鈴木福くん)みたいな子たちがキャッキャ言いながら遊んでいましたね」と伝えると、フッ・・・と苦笑いをする看護師さん。「・・・この階には赤ちゃんとお母さんたちしかいませんけどね・・・」と言ってバイタルチェックをして立ち去っていきました。心霊現象!?それとも幻聴ですか!?

内診の時に婦人科系に何かあるとのことでしたので、細胞診をしてみたら「軽度異形成」が発見されました。つまり、ガンになる一歩手前のような細胞が見つかったと。そして、その時の医師が放ったひとことが

「まあね、細胞が結構ぐちゃぐちゃでね、産道が腐っているようなもんです」

当時はまだ20代、私の後ろで母の顔が青ざめていくのがわかりました。デリカシーはモテる意外にも大切な要素だと思います。結局、炎症が発熱の原因なのかどうかなどもわからず、内科の先生が来て膠原病か?いや結核か?懐かしのツベルクリン反応をしてみたり、超音波でいろいろ調べてみたり、眼科まで行かされたり・・・いろいろ調べてみても原因はわからず。ついに術後の抜糸の時期がやって来ました。その時の衝撃。

ホッチキス!お腹にホッチキスやん!

あれは、なんか、コピー用紙の気持ちがわかりました(笑)次々に引っこ抜かれてゆくホッチキス。一緒です。コピー用紙と取り方が全く一緒です。そんなこんなで、だんだんと術後の体力は回復、看護師さんとのコミュニケーションも慣れて来たところで、医師から「あんまり長いこと入院してても、気が滅入るだけでしょう。そろそろ自宅に帰りますか?」と告げられました。すごいです。「とりあえず、なんかもうわからんから退院して」ということでした(笑)そうですね、元気だったら病床を空けるのが正解ですね。今なら理解できます(汗)

束の間のモラトリアム生活

とりあえず退院したあとは、傷口が痛む中でも「休職」扱いのなか読書したり、DVDの一気見をしたりして大人しく過ごしておりました。MRIを受けたら(ゴンチチが流れていました)婦人科系にあった「何かのカタマリ」は縮小しているとのことで経過観察に。すると、営業部から復帰して欲しいとのことで(一応持っていた予算が大きかったもので)突然の入院でご迷惑をおかけしましたという挨拶とともに、職場に戻ったわけです。しかし・・・やはりそこは体力がもう保たなかかったようです。ある日、職場のお手洗いでフラフラと立てなくなりました。(これはもう、アカンな・・・)と思い、退職する決意をしました。

それからは、とりあえず失業給付金が出ますので、その間ゆっくり養生しつつ、ボーッと、贅沢な時間を過ごしておりました。「そうだ、この間にコンプレックスだった英語を勉強しよう!」と、TOEICの勉強を始めてみたりもしました。そんな日々の中、ある日、別部署のボスから「コピーライターやってみーへん?」といきなりお誘いがありました。何やろう、この「You、やっちゃいなよ」のような・・・特にコピーの勉強をしていたわけではないのに、「うちの部署は座ったまま仕事ができるから」といったん退職した”未経験”の私を、優しく迎え入れてくださったのです。

コピーライターをやってみて 

「ファッション雑誌から抜け出て来ましたか!?」というような完璧美女で同い年の先輩にコピーの書き方と取材同行など色々教えていただき、かつてのクライアント様にも「え?コピーライターになったんですか?すごいですね!」と言っていただき・・・違うんですよ。コピー書くのって、想像以上に難しかったんですよ。まさに「ニホンゴワカラナイ」状態です。日本人として生きてきて、日本語日本文学科を卒業したにも関わらず、私にコピーライターの才能は無かったのです。やってみて初めてわかる難しさ。このような「自分が書きたいこと」を書くのは抵抗がないのですが、「求められている内容を書く」ことは残念ながら不向きでした。営業部をサバンナと例えると、コピーデザイナーチームは牧場。ゆったりと過ごさせていただいていたのですが、残念ながら、やはり体調不良で退職することに。いったん崩した体調はなかなか戻らないものです。

卵巣年齢を知る

実は私は、オープンシャッテン事件の前も、もともと婦人科系は弱い方でした。月経痛は当たり前、ロキソニン効くまで4時間ぐらい(←おかしい)。そこで、29歳の頃だったか、一度ブライダルチェックを受けました。すると結果が

「うーむ・・・今すぐ子どもを作った方がいいね。卵巣年齢が42歳と出てるよ」

と医師に言われました。青天の霹靂。もう高齢出産が増えている時代でしたが、それでも35歳で高齢出産と言われるんです。それが42歳ですと!?「すぐ作らなアカンで」(そんなん相手おらんわー!!!💢)・・・もう一生子どもは産めないかもしれないな・・・と密かに覚悟しておりました。

奇跡の妊娠かと思いきや

いろいろすっ飛ばしますが、とある日に奇跡的に妊娠かもの兆しが。万が一のことを考えて、カルテが残っているであろうオープンシャッテン事件の産婦人科を受診。そしたら・・・「子宮外妊娠の疑い」で即日入院。パジャマも取りに帰れず。病院好きなわけじゃないんですけど(泣)「子宮外妊娠かどうか判明するまで絶対安静(下手したら大量出血で死亡する可能性あり)」ということで、元気なのにベッドからあまり動けません。お腹のおチビには「ちゃんと真ん中にいなさいよ〜」と念じることしかできませんでした。1週間程度で無事に異常なしと判明し、退院。

次に待っていたのは、ハッピープレママタイムかと思いきや、脳貧血と妊娠糖尿病とつわりとむくみと戦いながらの妊娠期間。ほとんど死んだ時にしか会ったことのない祖父が糖尿病だったとかで、細身で少食で、甘いものも特に好きではない私が、「糖尿病食」での妊婦生活。「1日にぶどうは3粒まで」とか、つら過ぎる。脳貧血で、ソファからキッチンまでの5メートルが歩けない。しかも逆子になって「次の検診で逆子だったら帝王切開の手術室の予約をしとかないと・・・でも一度開腹手術を受けてますよね?なんか癒着とかあったら嫌やから、お願いやから下から産んで欲しい〜!」とお医者さんに頼まれる。(先生・・・私からもお願いがあるけど、そんなビビられてたらこっちが不安になるから!)それから必死にお風呂に浸かるとエイリアンが生まれるかの如くうにょーんと動くお腹に話しかける私。「絶対回って!頭が下!お願い〜」言い聞かせが功をそうしたのか、ギリギリセーフ。何とか普通分娩で出産。

産後に聞かれて一番困ったこと

赤ちゃんが生まれると、友人がお祝いに来てくれました。でも、聞かれて困ったことがあります。それは「もう可愛くて仕方ないんちゃう?」でした。

「可愛い・・・?」

そう、私は赤ちゃんが可愛いとは思えなかったのです。とにかく、神経質な性格なのか(本当に神経質なのかは疑問)「とにかく命を守らねば!」と思っていて、「可愛さ<常に緊張」でした。少し目を離した隙に吐き戻ししただけで、窒息死ですもんね・・・そして、うちの子は、新生児室から看護師さんに差し戻されるほど「超絶泣いて寝ない子」だったのです。ソファを基地として飛行機のエコノミークラスにずっと乗っているかのような一歩も動けない生活が続き、精神も肉体もズタボロ・・・。

産後うつ一歩手前から脱したあの日

今思えば、産後うつ一歩手前でしたね。しかも家族は「3歳児神話」の信望者。「3歳までは働かずに面倒をみてあげなさい」「3年ぐらいすぐだから、自分のことは我慢しなさい」・・・もう、ノイローゼ寸前でした。私は出産したとたんに「ママ」であり「自分」は抹消されたのです。家事育児だけして、社会との繋がりのない閉塞感と孤独感に耐えられず、ある日「家でできる仕事なら子育てしながらでもできるかもしれない」と思い、アロマセラピストになって自宅サロンをする決意をしました。意外とアッサリ家族は了承し(ほな、なんで今まで反対しとってん)、認可外保育園にむすこを預けてスクールに通うことになりました。

罪悪感の始まりと余計なひとことと開放感

保育園にむすこを預けて、一番困るのは「罪悪感」でした。預けるたびにこの世の終わりかと思うぐらい泣き叫ぶ我が子。見てるだけで5歳は老けます。追い討ちをかけるように母に言われた「アンタ、可哀想やから預けてる時間以外は自分のことするのやめてしっかり面倒みたりや」・・・ただでさえ罪悪感を持っている母親に向かって言わないでほしい言葉。鬱の人に一番言ってはいけない「がんばれ」状態です。

しかしながら、むすこを預けることによって、スクールが始まる前にすごく久しぶりに映画館にいくことができました。完全にひとり映画です。今でも感動したのを覚えています。そして、スクールが始まると、すごく久しぶりに大人の人と「自分」として話ができることに感激しました。

アロマテラピーとの出会い

私とアロマテラピーの出会いはかれこれそこから遡ること10年ほど。新入社員で就職をした頃でした。

なんともマイペースな私は、新社会人の慣れない生活で、鼻血が止まらないという事件を起こしました。そこで、休みの日に行った淡路島で受けたアロマトリートメントがとても気持ちが良く落ち着いたことに感動し、独学でアロマテラピー1級まではとっていました。

しかしながら、本職があり、年会費がまあまあかかるので、AEAJ日本アロマ環境協会の会員にはならず、趣味でアロマを楽しむ位のレベルでした。

自分を追い込む系

アロマセラピーの世界には、様々な民間資格があります。日本では代表的な日本アロマ環境協会のアロマテラピー検定の2級や1級、そしてアロマテラピーアドバイザー、アロマテラピーインストラクター、そしてアロマセラピストなどなど…。さて勉強しようか、と思った時、どうせやるなら突き詰めたいなぁと考えた私は、IFA国際アロマセラピスト資格というものを知りました。イギリスが本部にあるホリスティックアロマセラピーを理念とする国際的に通用するアロマセラピストの資格です。

(あ、この資格を取っておけば、将来日本を出たとしても地球上でアロマセラピストができるやん)

と思った私は、スクールの入学申し込みの時に、いきなり最上位資格までまとめてコースとして申し込み、学費を払ってしまうことにしました。
なぜならば、なんとなく自分が国内で通用するセラピストまで取得したら、満足して次にチャレンジしないだろうなぁと感じたからです。そういう人です。

スクールライフと育児

同じ趣味で同じ興味を持った人たちが集まる場はとても快適で、先生も面白い話を毎回してくださり、私にとってはとてもリフレッシュできた時間だと思います。帰ってから自分の時間がない私は、予習をするのはもっぱら授業の直前でした。これがまた、生徒としてはどうかと思いますが、めちゃくちゃ効率が良かったんです。
アロマセラピストになるためには必ず実技がついてまわります。つまり誰かをモデルにしてトリートメントをする練習をしなければなりません。しかし、とにかく小さい子どもがいると、トリートメントをする時間もなければ、働いている友人は平日の日中なんて不可能、土日は子育て。専業主婦のママ友さんだって家事がありますから、時間がありません。また、ママ友さんとは知り合って日が浅く、いきなりパンツ1枚になってくださいとはとても言えませんでした(苦笑)

そこで、なんとか昔の友人や母親、その知人などかき集めてモデルケースの課題を仕上げました。そして、実技のテスト前はひたすら早送りのイメトレで乗り切ったという…カフェで目をつぶりながら怪しい占い師みたいな手の動かし方をしている女を見かけたことがあるぞ、という方がいらっしゃったら、それは私です。

AEAJのセラピストまではそれでなんとかいけましたが、IFAは様々な課題が多く、解剖生理学も医学生や看護師レベルの参考書で学びます。このときばかりはママ友さんにも協力していただき、文字通り一肌脱いでいただきました。ありがとうございます。

和精油との出会い

課題が多すぎて、朝息子を保育園に送って行き、戻ってから家の掃除をし、実技のモデルさんをトリートメントし、洗濯機にタオルをほりこみ、そのまま息子を迎えに行き…と言う生活をしていたのですが、やはりちょっと(天然のダイエットになるほど)スケジュールに無理があり、IFA国際アロマセラピストの実技の試験は課題が間に合わず受験を見送ることとなりました。

そこで、次の年の実技試験を受けるまでの間に、「yuicaインタープリター資格取得講座」を受講することにしました。

講座の内容は、yuica(飛騨高山のブランド)の和精油だけでなく、日本の森や環境について広く学ぶ講座で、そこですっかり私は和精油の沼にハマってしまったのです。もともとインドア派で、どちらかというと「山より海!」と答えるタイプだったのに、森林の持つ魅力と、日本が世界的にも立地に恵まれて、多種多様な植物が育つ環境であることを知り、今まで行ったことがない土地、見たこともない植物の香りも「精油」ならその恩恵に預かれることを知ったのです。

はてな?が並んだ脳内とMOTTAINAI精神

若かりし頃いつかの授業で、「MOTTAINAI」が世界共通語になっているということを知りましたが、日本の国土における森林面積占有率は世界第3位(1位スウェーデン、2位フィンランド・・・並び方おかしいやろと心の中で突っ込む)にも関わらず、輸入している木材の量がめちゃくちゃ多いらしいのです。

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一般社団法人ウッドマイルズフォーラムホームページより抜粋https://www.woodmiles.net/chart/

おかしくないですか?なんで日本に使える森があるのにわざわざ輸入して、コストをかけてるんだろう?もしくは輸入する方が安いの?なんで?近くにあるのに?・・・子どもか!と思うほど私の頭は「なんで?」だらけになりました。諸事情があるのかもしれませんが、かつて「神去りなぁなぁ日常(三浦しをん著)を読んだときに、「とてもじゃないけど森の中で働く体力はないけれども、林業の人たちは大変なんだなぁ・・・」と感じた自分がフラッシュバックして、この「MOTTAINAI」をどうにかしたくなったのです。
そこに加えて、大型台風や地震、高齢化などにより放置された木々を見ることも増えました。(もちろんきちんと手入れされている所有者もたくさんいらっしゃるとは思います)

そこで、間伐材の利用は「エコ箸」などは知っていましたが、「和精油を蒸留する」という発想でもしかして林業の副次的な収入に繋がるのではないか?と考えたのです。しかも、材木にならない枝葉でも蒸留可能です。端材でも木部でしたら異なった香りがとれたり、チップとするだけでも天然のディフューザーの出来上がりです。

私が考えていることなど、他の1万人ぐらいが思いつくアイデアだ、と思いながらも「まだあんまり和精油のこと知ってる日本人、少ないよね?寺社仏閣を観光で訪れる訪日外国人たちは、その建築材の木を見て価値を感じているよね?ていうか、国内の財力があるはずの大きな団体がまだやってないよね?」ということで、全国津々浦々の和精油をオンライン上で日本国内どこからでも買えるセレクトショップ を作ろう!となったわけです。「もはやセラピストじゃなくなる」「やめとけ」と言われました(笑)でも、ほら、明日生きてる保証も無いし、いっかい死にかけたから、好きなこととりあえずやってみたいな〜と見切り発車でスタートしました。

MUSE NEST誕生・・・?

それから、とにかく大手のメーカーさんではなく、顔の見える生産者さんたちに「自社サイトで扱わせていただけませんか?」と、サイト完成前にも関わらずメールを送り、ご縁からただいま4社の生産者さんの和精油関連商品を販売しています。(順次パートナー生産者さんを増やしていく予定です)それぞれ、行こうと思ってもなかなか気合いの必要な、自宅からはもちろん駅や空港から遠い場所で生産されています。こんなところで元代理店勤務だったことが活きています。媒体を仕入れたり開発した利して、売る。その仕組みを応用するだけです。ハードワークでしたが、ありがとうございました(笑)

しかしながら WEBに関しては全くのど素人・・・サイト構築が進みません。何度も質問しては返ってくる答えもちんぷんかんぷんな日々。システム会社のサポートの方々や、助けていただいた方々には付き合っていただいてとても感謝しています。

国内で認知促進そして海外、未来へ

現在は、日本人にさえ認知度の低い和精油の魅力が、少しずつ世界でも認められてきています。そして、インバウンド需要といっても、私でさえなかなか足を運べない場所に、東京オリンピックや大阪万博に来た訪日外国人が足を運ぶとは到底思えませんでした。(新型コロナウイルスのため、それもまた延期になるなど、ハードルが増えました)そのため、「JAPANブランド育成事業等助成金」などに応募してみたり、越境ECにするための資金集めのクラウドファンディングを計画したりしています。

香りは、「古い脳」と呼ばれる大脳辺縁系に直接関わります。香りがきっかけとなって記憶が呼び覚まされる現象を「プルースト効果」をご存知でしょうか。スギやヒノキの香りは、日本人に親しみ深く、これによる高齢者の認知症予防なども期待され、もちろんメンタルケアへの有用性は既存のアロマセラピーのエビデンスが証明済みです。このまま行けば、高齢化して息子の世代は普通にセンチネリアン(100歳を超える人)になるでしょう。和精油関連商品がライフスタイルに溶け込み、地球にも優しく、家族にも優しく、医療費削減および予防医学に少しでも役立って欲しいというのが私の願いです。

とにかく、こんな1万字を超える長ったらしい自己紹介に最後までお付き合いいただいてありがとうございます。(やはり時間を決めて書くのがコツだというのがよくわかりました)

「うちの地域には珍しい精油があるよ」「森林持て余してるけど」「この植物は精油が取れるの?」という情報やご相談があれば、いつでもご連絡ください。本業はたぶん、母親業です。どうぞよろしくお願いいたします。


「ああ、こんな人がいるんだな」「応援してあげようかな」「子育てしながらがんばってるんだな」「日本で生まれ育ったから、日本をもっと好きになりたい」と思っていただければ、ぜひサポートをお願いします。