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【百物語】サボテンの声が

 死んだ婚約者のことなんか、早く忘れてしまうべきだと、わかっていた。 美咲の匂いのするものすべて処分し、そして新しい生活を始めるべきこと。 彼女の両親にも言われたし、式に呼ぶ予定だった友人たちからも、そう言われた。
 だけど、たったひとつ、捨てられない物がある。彼女が大事にしていた、一輪のサボテン。


──サボテンには、心があるんだって…。持ち主が嬉しい時はサボテンも嬉しいし、 悲しい時はサボテンも悲しいの。だから、わたしの心、ここにおいていくね…。


 そう言って彼女は、病院のベッドの上で、ずっと前から彼女が大事にしていたサボテンを指さし、 そして僕の前からいなくなった。
 美咲が死んで半年。もちろん僕は、美咲のいない新しい生活に順応しようと努力してきた。 それが美咲の遺言でもあった。
 そして友里恵と付き合い出して二ヶ月がたとうとしていた。
 友里恵は美咲のことを知らない。誰でもよくって、 ただ喪失感を埋めてくれる相手を求めていた僕の前に、彼女が現れた。 友里恵は友里恵で、逃れられないしがらみから、形式だけの結婚相手を求めているところへ僕がいた。 どこかでやはり自棄になっていたことを認めなければならないだろう。僕はそんな彼女の求める結婚に、 無為に寄りかかろうとしていた。
「できるだけ、新しいものに、買い替えたいわ」
 友里恵は僕の部屋のくたびれたテレビや、ダイニングテーブルや、数少ない食器類なんか指さして、 そう言った。
「なんの匂いもない、清潔な暮らしがしたいの」
 そんな友里恵だったから、美咲のことを話す気にもならなかった。 友里恵が僕に「顔」を持たない亭主像を求めるように、 僕も美咲のことは僕だけの心にしまっておこうと思った。
 結婚話はとんとん拍子に進み、日取りも細々とした打ち合わせも、滞りなく進んでいった。
 式まであと一週間に迫った日のことだった。あらかたの荷物は新居へ運ぶなり、 処分することが決まって、僕は一人、ビールを飲みながらTVのニュースを見ていた。 がらんとした部屋には、窓辺にサボテンが一輪。美咲のサボテンは、迷ったけれど、 結局捨てることができずに新居に持っていくことにしていた。 網戸をはめた窓からは、夜更けの、しかし蒸し暑い風。
 ふとサボテンから、美咲の声が聞こえたような気がした。近付いてよく見てみると、サボテンの棘の間に二ヶ所、 並んで二つの裂けたような傷ができていた。それはまるで目のようだった。そこから涙のような透明な液体が流れ出していた。
 僕にはそれが、美咲が悲しんでいるように思えて、そっと手を伸ばしてみた。 どういうわけかその夜に限って棘が鋭く僕の指先を射し、その拍子にサボテンは鉢ごと床に転がり落ちた。
 拾い上げると、サボテンは根元から割れてしまっていて、その位置はまるで大きく裂けた口のようだった。


 突然サボテンの口から、泣き声が聞こえてきた。


 低く、押し殺したような、悲しげな声で、 サボテンが涙を流しながら、泣き始めた。それはまるで、こんな選択をした僕を責めるような、恨めしそうな泣き方だった。
 僕は恐ろしくなって、サボテンを梱包用のダンボールに詰めて密封し、 何もわからなくなるまで酒を飲んで眠った。
 サボテンはそのまま一晩じゅう泣き声を上げ続け、翌朝、おそるおそる梱包を解いた時には、 干からびたように小さくしぼんで、枯れていた。
 僕はというと、結局それからひとりでいる。



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