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【百物語】熱い車内


 ドアを開けて吹き出る、むっとした熱気に雨のにおいが混じる。そのままエンジンをかけて、エアコンを最強にする。先日、消臭剤を使ったばかりなのでか、濃いめの「森林の香」が勢いよく吹き出して来た。

 ムスク系の匂いと、針葉樹から採れる香料の匂い。たしか、ヒノキチオールとかいったかな……そんな事を考えながら、車内の熱気が抜けていくのを待つ。


 私の汗っかきというのは、我ながらちょっと尋常では無いと思っている。とにかく、気温が30度を越えると、途端にフツフツと吹き出して来るのだ。それが僅か 0.5度でも30度を越えてしまえばダメだ。

 逆に30度を越えなければ、29.5度でも全く汗をかく事は無い。もちろん激しく運動したり、風邪で体温が上がっているときは別だ。ただ、じっとしていてもダラダラと汗をかき、それがきっちり30度を越えてから、というのは滅多に無い体質だろうと思う。

 というより、私以外こんな体質の人間を知らない。学生の時分にずいぶんと医学書などを調べてみたが、恒常性異常なのだという以外、私のような症例を説明する物は無かった。それでも30度という決まった外気温に反応するような例は、全く無かったのだが。


 轟々という吹き出しの音に負けない声で、FMラジオのパーソナリティが喋り続けている。この時間なら大江さんかな……毎日聞いている為か、名前も自然に覚えてしまった。

 久し振りの晴天だった。ここ数日ぐずついた天気で、強烈な夕立が追い打ちをかけていた。だから駐車場の出口にも、大きな水溜まりが出来ている。

 ようやく冷たい風が吹きだし始めて、首筋の汗を乾かしながらシートの背もたれで小さく渦を巻いた。耳の後ろの産毛がくすぐられるようで、妙な感じがする。

 ドアを閉めてゆっくり発進する。後は会社に着くまで、通勤時間の国道を30分も走れば、エアコンの利いた快適なオフィスにたどり着ける。


 走り出して5分ほどで、すっかり全身の汗がひいた。体中を覆っていた不快感から開放され、イライラしていた気分も落ち付いた。軽く鼻歌が出るくらいだ。

 反対車線はいつもながらのガラガラの状態だ。すれ違うドライバーも、通勤途中のサラリーマンに見える人は少ない。どの車も窓をぴっちり閉めて、エアコンを十分利かせているのだろう。誰の顔もゆったりとした寝ぼけ眼のように見える。

 ふと、何台目かに見知った女性の姿があった。見知ったとはいっても、いつも同じ時間帯にすれ違うだけの、ちょっと見の可愛い感じの女性だ。雰囲気はどこかのOLだ。

 いつも彼女は物憂げな雰囲気で、少し怒ったような顔をして走り去っていく。その彼女が今日に限って、何故か泣きそうな表情をしていた。ついその顔に気を取られてしまった。

 ハッとして気付いた時には遅く、信号待ちの渋滞が出来ていた。一瞬早く反応できたのが幸いだったが、車は歩道の縁石に乗り上げる形で急停車する羽目になった。


 後続車に盛大なクラクションを浴びせられながら、良かった、追突しないで済んだ、とホッとした。運良くガードレールの切れ間に突っ込んだから、自車の方も大した事はない。

 迷惑そうに私の車を避けて行く車を後目に、前にまわってバンパーの下辺りを調べてみた。見た限り、真下を軽く擦っている程度で、おかしな所は無いようだった。

 ほっとして立ち上がろうとした時だった。コツッと小さな音がして、バンパーの後ろから何かがアスファルトに転がった。何だろうと拾ってみると、それは小さなナットだった。

 バンパーの留め金が、今のショックで外れたのだろう。大した事じゃないと思い、再び車を発進させる。今度は縁石を慎重に乗り越えたので、バンパーを擦らずに済んだようだ。

 多少時間を食ってしまったが、ほんの5分位だろう。焦らず安全運転でも余裕で間に合う。今度は余所見などせずに、しっかり前方を見て走る事に集中した。


 そろそろFMで本日の星占いをやる時間だな、そう考えていた時だった。何かおかしい感じがして背中のあたりが気になり始めた。

 変だな……でも、確かにおかしい。いつの間にか、背中に汗をかいている。しかし、異変はそれだけではなかった。車内が妙に暑く、全身から汗が吹き出しているのだ。

 エアコンは間違いなく動作している。作動中を示す緑の LEDは確かに点いている。でも……吹き出し口からは紛れもない熱風が出ていた。おいおい、全く冗談じゃない。まさかエアコンが壊れたとでも? さっき転がって来たのは、エアコンの部品だったのか?

 温度設定を変えてみたり、エアコンのOn・Off を繰り返してみたりしたが、いっこうに直る気配は無かった。これならスイッチを切っていた方がマシだ。私は不本意ながら、エアコンを止めて窓を開ける事にした。


 途端に涼しい風が……と期待したのだが、外気は予想外に蒸し暑く、私に耐えられる温度をとうに越えているのが分かった。多分ゆうべ遅くまで降った雨のせいだろう。

 そう言えば、いつもは何台かは窓を開けて走っているものだが、今日に限ってどの車もぴっちりと窓を閉めていた。参ったな、これでは会社に着くまでに全身汗だくになってしまう。せめて風でも吹いてくれれば、と思うのだが朝の渋滞では、それも期待できない。

 とにかく、一刻も早く会社に着く事だ。会社のロッカーには着替えが置いてあし、シャワー室を使う事もできる。少しでも早く、クーラーの利いたオフィスに着く事が大切だ。


 焦る気持ちを無視するように、だんだんと車の流れが悪くなって来る。この先の信号の右折待ちの車のせいだ。右折レーンが無いのが原因なのだが、こういう時に限って何台も続いたりする。

 汗が玉になっている。首筋からタラタラと滴り落ちている程だ。用意しているタオルで汗を拭き取るものの、すぐに汗がにじみ出て来る。これでは全く役に立たないも同じだ。

 だいじょうぶ、我慢するんだ、あと10分も走れば、無事に会社に着ける。それまでの辛抱だ……だが、期待とは裏切られる物らしい。もはや車の流れは完全に止っていた。信号待ちで止っているにしては、あまりにも動いていない。


 さすがにじれったくなり、遥か先の方を注視した。渋滞の先頭の何台かが、Uターンして戻ろうとしている。そうか、先程から対向車線に一台も車が無いのは、そういう理由か。

 接触事故でも有ったのだろう。これは下手をすると遅刻するかもしれない。私も素早く後ろに合図して、車の向きを変えた。数百m戻れば十字路があって、そこから脇道へ抜けられる。少々走り難い道ではあるが、じっとしているよりはマシだろう。

 久し振りに風を感じられるくらいの速度で走り、首筋に心地好さを感じた。そのまま脇道に入り、会社に向かって走る。この道は一車線しか無い上に、両側が住宅になっている。ミラーの無い四つ角も多くて、かなり注意して走らなければならなかった。

 私の先に何台かの同じような車の姿がある。彼らも通勤途中の急いでいるサラリーマンなのだろう。後を追うように、自然にアクセルを踏み込んでいた。心地好い風を感じて、油断したのかもしれない。つい、調子に乗り過ぎてしまった。


 あっと思った時にはもう遅かった。ミラーの無い脇道から子供が飛び出してきて、車の前に立ち塞がった。一瞬振り返った子供の、恐怖に歪んだ表情が目の前に迫る。

 躊躇している場合では無かった。ハンドルを思い切り左に切って、ブレーキを力一杯踏んづけ、とにかく子供を避けようとした。

 次の瞬間、車は横転しながらブロック塀に突っ込んでいた。ぶつかる瞬間は何がなんだか分からず、迫って来る壁もただ真っ白に見えただけだった。


 気が付くと、私の車の周りを大勢の人が取り囲んでいた。視界が霞んで、ぼんやりとしか見えない。頭がガンガンして、何か耳鳴りのような音も聞こえる。大丈夫か、救急車を呼んだからな、しっかりしろなど、見知らぬ人が次々と声を掛けてくれた。

 返事をしようとしたが、うまく声が出せなくて咳き込んでしまった。鉄錆に似た味が口中に広がっている。口の中が切れているのか、かなり血が溜まっているようだった。

 ゆっくりと下を向いて、口の中の血を足下に吐き出した。その瞬間、ビシャッという音と一緒に、カチリという何かの金属音がしたのが、妙に耳についた。

 だんだんと視界がはっきりして来る。心配そうな、あるいは興味深げに車内を覗き込む表情もはっきりと見える。ゆっくり頭を起こして、吐き出した血溜まりに目を凝らした。


 なんだ? 何か小さな物が、赤色に染まった何かがそこにあった。更に目を凝らすと、それは何かのネジであるらしかった。エアコン以外にも何処か故障していたのだろうか。てっきり歯でも折ってしまったのかと思った。

 安心して、大きく息をした。途端に胸を締めつける激痛が走る。どうもハンドルで胸を打ったらしい。痛みに顔を顰めた時だった。口の中でガリッと何かを噛んだ感触があった。

 いけない、本当に歯が折れたのか? 幸い右手は痛いながらも動かせた。今度は慎重に、口の中の物を右手に吐き出してみる。前歯だったら厄介だな……そう思いながら、血塗れのそれをじっと見詰めた。

 ……ネジ? いや、ボルトか。1cmにも満たない細いボルトが二本、頭を絡ませ合うようにして寝そべっていた。ぶつかった衝撃で、計器類の何かが壊れたのだろうか。その外れたネジが飛んで、偶然私の口の中に飛び込んだのだろうか。


 辻褄の合う理由を必死に考えていた為か、車内のあまりの暑さに気付く事が出来なかった。いつの間にか、うだるようなというよりも、燃え盛る炎の直前にいるかのような暑さに変っていた。

 なんだって、こんなに暑いんだ……無意識に額を拭おうとした時だ、私は自分の体に起きた異変に気付いた。こんな暑さの中で、全く汗をかいていない。額や首筋はいうまでもなく、脇の下や背中にも汗をかいている感触が無かった。

 その代わりなのだろう、額に触れた私の腕は驚くほど熱を帯びていた。火照っているなどという生易しい物でなく、火で焼かれたかのように熱を発していた。

 しかも腕だけでなく、私の全身がそうだった。車内に焦げ臭いにおいがたち始めた。化繊の綿ぼこりを燃やす時のような、石油系の焦げ臭さだった。

 痛みを我慢しながら、座席から身体を起こそうとする。それはとても辛く、シートベルトを外すのすら激痛をともなった。なんとか右手でハンドルに掴まり、身体を起こす。


 その時だった。


 フロントガラスから私を覗き込んでいた男の顔が、驚きのあまり奇妙に歪んだ顔になった。そして次の瞬間

「燃えてる! 燃えてるぞ、あんたぁ!」

 男が叫ぶのと同時だった。私の背中のシートが火を噴いて、めらめらと服に燃え移り、車内のあらゆる場所を朱色の炎に変えていった。

 誰かが、消防車を呼べ! と叫ぶのが聞こえる。消火器は無いのー、と叫ぶ女性の声も聞こえる。皆が一斉に車から飛び退いて、引きつったような表情で私の方を見ていた。

 だが、不思議と私に恐怖は無かった。不安も痛みも、熱さすら感じていなかった。むしろ涼しいくらいの感じがしていたのだ。

 何しろ私はいま、全く汗をかいていないのだから。私は涼しいに違いないのだ。



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