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【今日のnote】書けないはずの日に書く文章。

 こんばんは、狭井悠です。

 毎日更新のnote、書き始めてから6日目となりました。今日は深夜3時には起きて、早朝からいろいろな仕事に追われ、かつ、イレギュラーな仕事や、修正が必要になる戻りがあれこれと発生していたこともあって、まだまだやることがたくさん残っており、かつてないほどごきげんナナメな一日でした。

 先ほど、2時間ほど寝て、やっと精神の状態が少しばかり落ち着きましたが、いやはや、自分のごきげんを回復させることは簡単なものではないですね。なんとか起き上がって、時計を確認し、今日という日があと3時間ほどしかないことを知り、急いでnote更新に取り掛かっているところです。

書けないときは、脳に物理的にシャッターが降りている

 今日は、本当にきっついです。今感じていることを正直に書くと、脳みその中に物理的なシャッターが降りている感じに近いですね。ぴしゃっと扉が閉まっていて、そこから先には誰一人どこにもいけないし、扉の向こう側に何かの気配を感じることもない。ある種の「死」に近いような感覚です。何かが圧倒的に、完膚なきまでに死んでいる。一見すると、回復の見込みがありません。

 ですから、本来であれば、こんなふうに無理やり文章を書く必要なんかないし、さっさと休養を優先して眠るべきなのでしょうが、毎日更新のコラムをnoteにアップロードするという約束を自分からしたので、その約束を守るために、こうして手を動かして、目の前のパソコンの真っ白な画面上に、必死になって文章を弾き出しています。カチャカチャ、というタイピングの音が部屋に響いています。音楽を聴く余裕もないので、部屋は無音です。窓の外からは、強い風の音がします。轟々と音がしている。嵐が近いのでしょうか。わかりません。

「なんでそんな無理して書くの?」「そんなにきついならやめとけばいいのに」「わざわざ書けない日に文章を書こうとするなんてわけわからん」といった声がどこかから聞こえてきます。いやはや、まったくおっしゃるとおりで、そんなに疲れて思考が停止しているならば、なにも無理して書く必要はあるまい、と自分でも思います。

 でも、たぶん僕がnoteの毎日更新を約束したのは、まさにこういう「最低な気分の日」に、どうやって、目の前にある「空白」を言葉で埋めていくのかを、実際に手を動かして確かめてみたかったからなんだろうと思うんです。

 本来であれば、絶対に眠っていたであろう時間に、こうしてあえて手を動かして文章を書く、という現実離れした闘いを日常生活に挟み込むことによって、非日常的な空間を作り出し、そこから得られる何らかの教訓を得ようとしているのかもしれません。いや、そこから得たいのは果たして教訓なのか、それも今の僕にはわかりません。でも、こうして無理にでも手を動かさなければ見えない何かがあるんだと思います。

 機嫌の良いとき、書きたい事があるときには、誰でも文章なんか書けます。たかが文章です。しかし、されど文章です。ほんとうに、心の底から、深淵にたどり着きたいんだと思います。だから、約束を安易に投げ出して寝てしまうことなんてできないんです。

 とはいえ、先ほどもお伝えしたとおり、僕が今感じているのは、圧倒的な、死に近しい状態です。感性が閉じてしまっていて、僕の意識はこうしている間も、暗い眠りの淵に両腕を引っ張られていて、首は船を漕ぐように前後にゆらゆらと揺れています。眠い。ほんとうに。

 嗚呼。これはすごいな、ほんとうに、まったく意味のない文章を書いている気がする。でも、この文章は、ただ単に文字数を稼ぐために書きなぐっているわけではなく、何かが指の先に触れるかどうかを、暗闇の中で手探りで確かめているような、何かを必死に探し求めているような、どこか儀式めいた行為でもあると感じています。

 ——「きみ」はもう、ここにはいないんだ。

僕たちは過去に、確かに、何かを失くした

 何も失くさない人生なんて、きっとないのだろうと思います。でも、自分から失くしたくて失くしたものなんて、この人生にはきっとひとつもないはずです。そうは思いませんか?

 僕が今、深い仕事の疲れと、めくるめく眠気によって、閉じた感性の中からたった一文、引き摺り出してきた文章は、「きみ」はもう、ここにはいないんだ、というものでした。やっと、指先に触れた文章が、これなんだな。そうだったのか。

 そう、「きみ」はもう、ここにはいない。そして、ここで指す「きみ」という存在は、もはや一個人を指す言葉ではなく、もっと観念的な、かたちのない何かであり、それは、「何処かにいる誰か」なんです。そしてたぶん、僕は、あるいは僕たちは、その事実を認めたくないんです。それを認めてしまったら、僕たちはもう、文章を書くという行為そのものを、続けることができなくなってしまいます。

 そう、僕たちは過去に、確かに、何かを失くしたのです。とてもよくわかっています。そして、それはもう、回復のできない「何か」を含んでいて、時計の針は戻ることなく、僕たちの失くした、その、「きみ」という誰か、世界のどこかにいる、あるいはいた、今でももしかしたら、この世界のいるのかもしれないけれど(ああ、たぶん、これは僕たちの勝手な希望だ)、でも、もう同時代的には、同時系列的には、この世という場所では、僕たちという一人称複数的な人生では、二度と交わることのない、遠い宇宙の向こう側に飛んでいってしまって、もう出会うことができない、流星群、遥か彼方にまで飛んでいってしまった、そうした、失くしてしまった「きみ」との縁をもう一度どこかに再現する手段がほしくて、僕たちはこの、文章を書くという方法を選びました。

 選ばざるを得なかった。

 だから未だに、僕たちは小説という媒体にこだわります。

 その世界では、人生におけるあらゆる出来事が、二次的に再現可能だからです。僕たちはなぜ、「きみ」を失くさねばならなかったのか。それはいつ、どうやって失くすことが決まってしまっていて、「きみ」を失くしてしまうことを、僕たちは避けることができなかったのか、あるいは避けることはできたのか、避けることができたならば何をすべきだったのか、何をしないでいるべきだったのか、僕たちはまたいつか「きみ」に会うことはできるのか、川、海、山、谷、風、そうした、「きみ」を包み込む世界そのもの、音、味、あたたかさ、光、目を閉じると見えてくるもの、目を開けると消えてしまうもの、水、心、熱さ。冷えた手をもう一度手にとって、あのいつか見た星の向こう側にいく、そうしたことは実現できるのか、僕たちは、僕たちの失くした大切なものを取り戻すことができるのか。僕たちはそれが見たい。死ぬまでに、一度でいいから見たい、夢を、失くしてしまった大切なものが見たい、会いたい、一目でいいからそこにいてほしい、ただ一言、許してほしい、そして、認めてほしい、ここにいて良いんだよと言ってほしい、


 だから書き続けるんです。僕たちはこれからもずっと、きっと。命果てるまで、続けるんです。そう、これは「祈り」なんだ。もう一度、失ってしまった「きみ」と会うために。続けること以外に、どこかにたどり着く方法はない。銀河鉄道の夜に、夜の向こうがわにいくために、僕たちは言葉を紡ぐ。それは、何もむずかしいことじゃないはずだったんだ。むかしはそうだった。いつでも、思った瞬間に、「きみ」に会いに行くことができた。「想いは、光よりも速い」、そう、誰かがむかし、言っていたような気がするなぁ。

 でも、いつの間にか、銀河鉄道の切符を失ってしまった僕たちは、どうすれば、あの空の向こうがわにいくことができるのか、わからなくなってしまった僕たちは、手探りで毎日を生きていて、仕事に疲れて、酒に溺れて、くだらないことばかり覚えてしまって、大切なものはすべて忘れて、時折、自分を失うくらいに疲れ果てたときに、思い出したように、「きみ」のことを考える。そして、僕たちは雑居ビルのあの四角く区切られた空を見る。そこには、銀河鉄道が確かに走っていて、僕たちはもういちど、あの空の向こうがわで起こったさまざまな出来事を、ほんの一瞬だけ、ほんの一瞬だけ思い出すことができる。帰りたい、あの頃に、「きみ」がいた、僕たちもいた、笑っていた(クラムボン)、あるいは麗しい太陽、月、光、山、水、もみじ、季節、雪、肌、寒さ、夢、今宵、命、魂、体、そうした森羅万象、つながっていた、確かにいた、僕たちはいた、「きみ」もいた、ぜんぶがそこにはあった、そして、今はもう僕たちにはないもの、ユウトピア、あるいはイーハートーヴ、そうしたよくわからない場所、誰もみたことがなくて、誰もがみたことのある場所。


 すみません、半分以上寝ていて、今、急に目が冴えて、目の前に見たことのない文章がありました。自動書記的な。——宮沢賢治? みたいな感じの文章が、洪水のように、疲れで限界な僕の中から溢れ出てきたようです。いや、身体の中に詰まっていたのかな。すごいな、これ。わけがわからない。明日、また読み返してみよう。たぶんもう、二度と同じものは書けない類の文章だと思います。

 今日はここまでにしておきましょう。不思議体験でした。

 今日もこうして、一日の終わりに、無事に文章が書けてよかったです。

 明日もまた、お会いしましょう。

 おやすみなさい。

サポートいただけたら、小躍りして喜びます。元気に頑張って書いていきますので、今後ともよろしくお願いいたします。いつでも待っています。