「みんながそうでなくてもいい」と思えれば…

コロナ禍になってから特に、物の見方の違いによる人々の意見の相違、分断が目立つようになってきているなぁと感じます。コロナそのものや、ワクチン、薬、マスク、消毒など、関連するものについての考え方、はたまた健康や人生そのものについての考え方もそれぞれ違って、ネットでも家でも街でも、様々な論争や言い争いが起きているように思います。私はもともと回避型の傾向があるタイプなので、自己主張や言い争いが面倒になってしまいやすく、自説を主張するのも面倒だが規則やルールに従うのも嫌、という葛藤を常に抱えがちです。

タイトル通りなのですが、自分はA説を信じているが、B説やC説を信じている人がいたとして、「みんながそうでなくてもいい」と思えればお互いに結構楽なんじゃないかなと思ったりもしています。平たく言えば、他人の意見も尊重しようとか、多様性を重んじよう、みたいなことになると思います。どんなに正しいことであっても、一方的な価値観の押しつけはやはり良くないと思うし、他人を見下す原因にもなるので、愛がないなぁと感じます。

コロナ騒動は健康や命に直結する問題だからこそ、ただの価値観の違い以上に深刻というか、「何が相手のためなんだろう、愛なんだろう」と思うと非常に難しいものがありますね。「救いたい」はエゴ?おせっかいの是非という記事にも似たようなことを書きましたが、相手の健康のためと思って言うことが、価値観の押しつけになることもあるため、私の中での結論は、「相手の気持ちを尊重し、何も言わないでおく」ということに今のところ落ち着いています。そもそも「健康=是」が当たり前の前提となっていますが、それすらそうとも限らないものですしね。例えば食の安全や健康にこだわりすぎるとジャッジも強くなるし、気を遣っていない人に怒りや苛立ちを覚えてしまったりもします。その辺りのことは「少し先に気づいただけ」という意識という記事にも書きました。

ちょっと話は変わりますが、私が日々内観を進める中で最近強く感じていたことが「私はなんて親にコントロールされて生きてきたんだろう」ということでした。このことは世の中のしくみに気づき始めた26~27歳頃から思っていたことではありますが、自分が他人(親など)に価値観を押しつけようとしてしまうことに気づいた時に、これはやはり小さい頃から親に同じことをされてきたから、そうしたくなるのではないか、と感じたんですね。価値観の押しつけというのは要は他人を支配・コントロールしたいということですよね。逆に親に支配・コントロールをあまりされず、のびのび育った人であれば、他人に価値観を押しつけるようなことはあまりしないだろうなぁと思った次第です。私が自分の価値観の押しつけ癖に困っているのも、それだけ幼少期から価値観を押しつけられて苦しんできたからなのだろうなと思っています。

親は「あなたのためを思って」と言って、いい学校に行かせようと勉強させたりするものですが、それが本当に愛なのかと言うと疑問です。「あなたの健康を思って」と言って、(特に相手が嫌がる場合に)何かを押しつけるのもやはり愛ではないと思いました。「自分の健康のために気を遣ってほしい」と言っても、叶わないこともあります。家族の場合は特に自分がこうしたいのに、家族が無頓着で実際に被害を被ることもあるので非常に難しいですが(例:私は香料が苦手なのだが、親が香料の洗剤をやめないなど)、最近は「全部が全部思い通りにはならないものだ」と少し諦めています。

自分の考えや世界観を持つことはとても良いことだと思っているのですが、自説にとらわれて固執しすぎると、他人に価値観を押しつけたり、他人を見下してジャッジしてしまうことにもつながり、生きるのが苦しくなってくるように思います。小さい頃から親に支配・コントロールをされていた人は特に、そういったことに苦しみがちなのではないでしょうか。また、目上の者が言うことに疑問を感じたことがない人も、他人の多少のルール違反にも目をつぶれず、ジャッジしているのをよく見ます。「あの人マスクしてない!消毒してない!」みたいな感じですね。いろんな考えの人、いろんな事情がある人がいるので、「みんながそうでなくてもいい」と思えれば良いのですが、政府やマスコミは日本人の同調圧力をいいことに、全体主義になるように煽ってきます。いろんな考えの人がいることにもっと寛容になれると、みんなが生きやすくなるだろうなぁと思うのですが、道のりはまだまだ遠そうですね。

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