「救いたい」はエゴ?おせっかいの是非

昨今のコロナ騒動やワクチン騒動を見ていると、相変わらずのカオスっぷりで、結局私も玉石混交の様々な情報の渦で踊らされる人間の一人なのだな~と改めて思ったりもしています。私はマスクや消毒は害の方が大きいと思っていますし、ワクチンも危険なので打ちたくないと考えています。家族はいわゆる一般的な考え方なので、マスクや消毒に熱心ですし打てる機会があればワクチンも打つものと思われます。

マスクや消毒はまだしも、ワクチンは本当にやめた方が良いと思っているのですが、それでも本人が打つというのなら止められないし、それで何か副反応があったり最悪死に至ったとしても、仕方ないと諦めています。「なんで止められなかったんだ、止めなかったんだ」とは思わず、「それが本人の運命だ、寿命だったんだ」と思うと思います。

家族が病気や心の病で亡くなったりすると「なんで助けられなかったんだ」と後悔したり自分を責めて苦しんでしまうケースもあると思います。私もその気持ちはとてもよくわかります。しかし最近は別の考え方も生まれてきていて、「そもそも人が救いたいと思って他人を救えるのだろうか?本人の運命や生命力によるところも大きいのではないか?」と思うようにもなりました。「私は〇〇さんに救われました」と言うことはあるけれども、救ったとされる本人は何の気なしにしていたことだったりすることも多いですしね。

私はこのようなことを考えることが多く、過去にも「人の役に立ちたい」はエゴなのか?という記事や、「良かれと思って」善意の行動の難しさという記事などで似たようなテーマを題材にして書いています。現時点で思うのは、私がある程度発信している情報や思想に共鳴して、情報を求めている方(例:○○にオススメのハーブティーが知りたい、など)に何かをお伝えして役に立つことはできるかもしれないけれども、そうでない人に何か意見を言ったりアドバイスしたりするのはおせっかいで余計なお世話過ぎるのでやらない方が良い、ということです。いろんな考えの人がいるので、自分の考えが正しいと思いすぎない方が良いし、常に自分の考えが間違っている可能性があるという気持ちを忘れずにいたいと思っています。

かといって、おせっかいが良くないとかやめろというのではなく、おせっかいが人を救うケースは実際にあるし、これもやっぱりケースバイケースだなと思っているんですね。ホントにそこが難しいところで(笑)。先日NHKで放送されていた『特集 人情不動産屋の日々~家探しの現場・1年の記録~ 』という番組を観たんですが、これが心に響く番組だったんですね。ある岡山の不動産屋さん、普通は断られるようなワケありの方の家探しを行っている方なんですが、この地域の重要な福祉事業を担っているのではないかというくらい、困っている(いわゆる社会的弱者)人に家を用意して、彼らの人生を救ってきているようでした。この番組を観て、「おせっかいが人を救ってるじゃん!」と思ってちょっと感動してしまいましたね。本当に生きるか死ぬかの瀬戸際の状況の方に対しては、多少おせっかいでも手を差し伸べていくことが、その方の人生を立て直すことにつながるのかなと思いました。しかしそれも本来は「公」のやることであって、民間の善意に任せてはいけない領域だと強く思うのですが。

上記のおばちゃんの例であっても、差し伸べた手が握り返されなかったケースはあったんじゃないかなと思うんですよね。支援しようとして拒絶されるというのは現場ではよくあることだと思いますし。それでもおせっかいに救われた人も確実にいるんですよね。人が人を救うことの限界も知りつつ、それでも助けたいという純粋な気持ちで生きている方には頭が下がります。何にしてもそうですが、良いとか悪いとか割り切れないものが多く、ケースバイケースということが多いんですよね。世の中のことを知りよく考えるようになるほど、あらゆることがケースバイケースであって、表面的な良し悪しの二極ではなく、もっと根本的な深い部分を見て判断することが大事なんだなと思うようになりました。

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