「少し先に気づいただけ」という意識

生活を共にする家族や親しい人であればとりわけ、世の中に対する物の見方がある程度一致しているかどうか、というのは重要だなと感じます。私自身がここ1か月くらい向き合っていたのは、「家族と物の見方が違いすぎる」ということについてでした。社会についての探求心が強く、日ごろから情報収集をしている私と、ごくごく普通に生きている家族とでは、物事に対する捉え方や価値観、優先順位などが違いすぎて、違和感を感じることが多々あります。

これは「先に気づいた人あるある」なのかなと思っていて、食べ物に気を遣っている人、環境を配慮した製品を選んでいる人、社会や医療の闇に気づいた人などで、私と同じような感覚を持ったことがある人は多いのではないかと思います。「なんで食べ物買うとき裏の表示見ないんだろう」、「なんで何かを食べないと怒るんだろう」、「なんで変な香り(人工香料)の洗剤とか平気で使えるんだろう」、「なんで西洋薬を信じてるんだろう」、などと家族や周囲の人に思ったことがある人は結構いるはずです。

家庭内だけでなく社会全体を見渡してみても、「先に気づいた人」が、「日本人は平和ボケしている!早く目覚めよう!」みたいなことを言っていたりするのもよく見ます。私も概ね同じように思っていますが、そういう言い方をしても何も変わらないだろうな、という気持ちも一方では持っています。どこか「先に気づいた人」は「気づいていない人」を「情弱」とか言ったりして見下すような、バカにするようなところがあるし、はっきりは言わなくとも根底にあるそういう意識が「気づいていない人」を逆なでして、開き直らせるようなところがあるのではないかと、そういう気がしています。

はっきり見えるわけではないですが、「先に気づいた人」と「気づいていない人」の間にはうすーく分断があるように見えるんですよね。「先に気づいた人」には知識マウントもありそうですし、「気づいていない人より偉い」、みたいな意識があるのではないでしょうか。知識をひけらかしたり自慢したりマウントを取るために持っているとしたら、その人は「知識はあっても知恵はない人だね」ということになり、逆に浅はかさを露呈してしまっています。私自身も親に対してそういう意識が根底にあって、それが見透かされて嫌味を言われたり、分断につながっているのかなと思って反省していました。

人のことを「情弱」とか言ってバカにする人だって、何かのジャンルについて詳しいだけで、他の分野については「情弱」ですし、「自分は知っている」という思い込みこそが人間の最大の思い上がりだろう、とも思います。実際勉強したりすればするほど「私なんてな~んも知らないわ」と気づきますしね。ソクラテスの言う「無知の知」の本意がどんなものであったかはわかりませんが、少なくとも他人のことを「気づいていないから」と見下したり馬鹿にしたりすることが、賢明なふるまいでないことは確かです。「先に気づいた人」は文字通り、ただ少し先に気づいただけのことです。その人がすべきことは、得た知識を広めること、知識を知恵に昇華して実生活や社会に還元していくことなのだと思います。

ただそうする時に、相手を馬鹿にしたような意識が透けてみると相手もそれを感じ取って逆に聞く耳を持たなくなったりするので、言い方や伝え方がとても重要ですね。まずは「自分は少し先に気づいただけだ」と謙虚な気持ちでいること、相手もいつか気づくさという気持ちで接すること、もっとかっこよく言うと、相手の知性や賢さを信じることが大事なのかなと思います。「親はバカだから何を言っても無駄だわ」とか思う気持ちはわかるんですが(-_-;)、そう思うからこそ、その関係性が固定されてしまうような気がします。人間の優越感(劣等感)、選民思想は根深いもので、いつでも何でも比べてはマウントを取りたがるものです。何かを知ってるからって別に偉くもなんともないんだと、私だって何も知らないんだと、自戒を込めてこの記事を書いてみました。

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