「放っておく」ことができない人々

私が常日頃疑問に思っている自分と他人の境界線や距離感、自分が他人の人生にどこまで介入できるのか、といったことについて改めて考えてみたいと思います。昨今のコロナ騒動、ワクチン騒動において、家族や親しい人との意見の相違、物の見方の違いが浮き彫りとなり、互いに説得を試みたり、諦めたりと、人間関係上の葛藤があちこちで多発しているようです。また、情報収集のためツイッター等をよく見ていると、あるツイートに対し、反発的・攻撃的な反応をする人も割とよく見られ、「放っておけばいいのに、赤の他人によくそんなこと書けるな…」と思うこともしばしばです。私はSNS上において他人にコメントをすることはほぼないので、特に異様に思います。

身近な他人を説得しようとしたり、意見を押しつけようとしたりするのと、赤の他人のツイートに不快なリプをつけることを一緒に考えるのはおかしいのかもしれませんが、どちらも「放っておけばいいのに」と思う私がいます。これまで私も家族をさんざん説得しようとしたけれど、特に対親については絶対に子どもの言うことなど耳を貸さないので諦めてきました。身近な人が亡くなったときに、残された人が「あの時ああしていれば…」と後悔するようなエピソードも度々耳にしますが、そのたびに「そもそも他人の人生に自分がどこまで介入できるんだろう?」と思ってしまって、「自分が○○しなかったからだ…などと思うのは、かえって思い上がりの場合もあるかもしれない」と考えることもありました。これは私がまだ子どもの立場しか経験したことがないからかもしれません。ある人にとって親の立場、配偶者の立場であれば、影響力の度合いはまた違うと思うので。子どもが小さい場合は親の影響力は大きいでしょうから、介入度もおのずと高いと思いますし、ある程度の責任もあるように思います。

ツイートのことで言えば、批判的な内容のみならず親切な人もたくさんいて、「○○には□□が良いですよ」と教えてあげている人もたくさんいるようです。私は「良かれと思って何かをする」というのは実はかなり難しいと思っているので、人に何が良いとかお勧めするのも気を遣ってしまいます。ごく親しい友人には言えるかもしれませんし、私のツイートやブログで何かを発信することはあっても、他人のツイートにコメントをしたり…ということはできません。自分の場で発信することと、他人の場に何かを書きに行くことは、私にとってかなり違いがあるようです。

この辺りの人との距離の取り方をどう考えるかということについて、少し指針となる話があるので書いてみたいと思います。少し前に読んでいた『母という病』岡田尊司(著)という本です。乳幼児期の母子の絆、愛着形成の重要性を述べた本なのですが、「安定した愛着」の特徴として、「感受性」と「応答性」が豊かであるということを挙げられていました。子どもの気持ちや欲求を感じ取り、子どものアクションに対して適切なリアクションをすることが大事ということです。そうやって接してもらえると子どもは母親から愛されていると感じます。放任・無関心も良くないし、過保護・管理・支配も良くありません。大事なのは見守るということで、子どもが困っていたりこちらに何か求めていそうだったら、適切な反応をすることが大事なのだと思います。それが愛情深いコミュニケーションの一つなのではないかと思っています。

「放っておく」と言うと冷たい感じがするので、「見守る」と言えばいいですね(笑)。家族や知人にしてもツイッターの他人にしても、困っていて助けてほしい、教えてほしいという人に知りうる限りの情報を提供するのは良いことだと思っています。今回の騒動は命にかかわることだったりするので力が入ってしまうのは当然だと思いますし、熱くなってしまうのはわかります。ただ、求めていないのに一方的に押しつけたり、相手をバカにしたりするのはどうなのかなと思うことがしばしばあったので、こんな記事を書いてみました。

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