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自らの血で神武天皇を描いた"神業絵師"伊藤彦造の世界/鹿角崇彦

昭和初期、「自らの血で神武天皇を描く」というとてつもない構想を実行した絵師がいた! その経歴を調べてみると、新聞記者、挿絵画家、さらには大陸戦線での特殊任務など「画人」の枠にはおさまりきらない数奇な人生がみえてきた。剣豪・伊藤一刀斎の血を受け継ぐ「憂国の絵師」伊藤彦造に迫る。

文=鹿角崇彦
資料協力=弥生美術館

血で描かれた神武天皇図

 2020年5月で、まる1年を迎えた令和の時代。日本じゅうがお祭り騒ぎのような祝賀ムードに沸いていたあの改元は、まだたった1年前のことなのだ。当時SNSには元号を擬人化したキャラクターや、上皇さま、新天皇陛下の似顔絵がさかんにアップされていたことを覚えている方も多いだろう。
 代替わりや皇室の慶事にあわせて天皇が描かれるのは明治以降しばしばみられることで、戦前には国史の画題や「尚武」のシンボルとして、初代天皇である神武天皇やヤマトタケルなどが多く描かれた。こうしたものは新聞や雑誌の付録としても大量に印刷され、国民の間に広く行き渡っていたものも少なくない。

 だが世の中には、そうした作品とは一線を画す、とてつもない天皇の絵が存在していたのだ。

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彦造が自らの血液で描いた神武天皇。モノクロ写真しか現存していないが、現物はどんな色をしていたのだろうか。

 その絵がこれである。山上に立つ堂々とした神武天皇の掛け軸で、一見したところ特段奇妙な点はないようにみえる。しかしこの絵のすさまじさは構図ではなく、その製作過程にあるのだ。
 なんとこの絵はすべて血液で、それも画家本人が自らの体を切って絞りだした、正真正銘の人間の血で描かれているのだ。

 血液を絵の具にするというとてつもない構想を実行したのは、伊藤彦造という絵師。画幅のサイズからして1メートルはあろうかという人物画を、自らの血だけで描くなどということが本当に可能なのか……にわかには信じがたい話だが、その製作過程の様子は当時の新聞や雑誌でも報じられている。

貧血になりながら執念の作画

「鮮血の神武天皇像」が製作されたのは、今から90年ほど前、昭和7年(1932)のこと。当時刊行されていた美術雑誌「塔影」には、画壇の近況を紹介する「画壇鳥瞰」というコーナーがあったのだが、ここに神武天皇図製作の話題がとりあげられている。その記事から、伊藤彦造がどのようにこの絵を描いていたのかを見てみよう。

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「鮮血の神武天皇像」を紹介する「大阪毎日新聞」の記事。並んで立つ彦造と比較すると絵の大きさがよくわかる。

 記事のタイトルは「血潮で描く 神武天皇御尊像」。
 本文はこう始まる。
「阪急沿線服部に住む伊藤彦造氏は絵画報国の一念から自分の血をしぼつて神武天皇のお姿を描き奉り、広く国民の胸にうつたへやうと最初左腕にメスをあゝて流るゝ血を筆に受けて絵絹に描き込んでゐた」(「塔影」八巻四号、「画壇鳥瞰」より。原文の旧字体は新字体に変換)
 絵師はメスで腕を切り、絵皿に直接血を受け止めていたのだ。その姿を撮影した写真も残されているが、腕からしたたる三筋の血がはっきりと写されているのが見て取れる。記事はまだつづく。
「……絵絹に描き込んでゐたが、生理的相関関係から右手にふるえがきざしたので其後は両腿並に肩寄の背中から採血し神武天皇の御膝下あたりまで描いたが、すでに全身数十ヶ所に上る傷と貧血のため遂に倒れ一時休養して元気の回復を待ち再び続けるはずである」(同前)
 左手から血を採りつづけたところ右手が震えてきたので、太ももや背中に場所をかえてさらに血を採ったというのである。最終的にその切り口はなんと全身55か所にものぼった。
 背中から血を採ったとあることからわかるように、この作業は絵師ひとりでは実行できない。だれが背中から流れる血を採ったのかというと、それは絵師の妻だった。
 貧血で倒れる夫を目の当たりにしつつ、その血を絵皿に集める妻。そんな様子を想像するとなお、絵師が、そして妻も同様にこの絵にかけていた想いのすさまじさが感じられるのではないだろうか。

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製作風景を写した一枚。自らの腕を切りつけ、絵皿に血を採っている様子が生々しく残されている。彦造はこれを2週間毎日続けたのだ。

空前絶後の絵師・伊藤彦造とは

「鮮血の神武天皇像」製作がスタートしたのは昭和7年の3月21日。宮中で皇室の祖先が祀られる春季皇霊祭の当日だ。この日から、絵師は毎日3皿ずつ絵皿に血をとり作画をつづけた。
 そして4月3日、現在も神社などで祝われている、神武天皇の誕生日とされる「神武天皇祭」の日に絵を完成させた。絵師は正味2週間にわたって、文字通り心血を注いで神武天皇を描き切ったのである。

 おそらく絵師ははじめから、皇室にまつわるこのふたつの「神聖な日」を開始と完成の日と決めていたのだろう。だからこそ、たとえ貧血に倒れようとも2週間で神武天皇を描ききらなければならなかったのだ。
 完成した画幅は「大阪毎日新聞」に寄託され、そこから陸軍大臣に贈呈されることになった。その顚末を伝える同紙の紙面には、「滴る己が鮮血で描き奉った御英姿」との見出しとともに絵師本人の写真がうつる。

 東アジアには古くから「血書」という文化があり、仏教の世界では自らの血で写経したり、仏画を描いたりすることもあった。
 平安時代、争乱に敗れ讃岐に流された崇徳上皇が自らの血で五部の大乗経を写したのは有名なエピソードだが、天皇そのものを自らの血で描いた画家は、空前にして(おそらくは)絶後の存在だろう。

 絵師・伊藤彦造とはどんな人物だったのか。
 何が彼を「鮮血の神武天皇」製作に駆り立て、それは彼の人生にどんな影響を与えることになったのか。
 自ら「憂国の絵師」を名乗った画人、伊藤彦造の生涯を、その作品と数奇な経歴を追いながらながめてみよう。

幼少期から開いた画才

 自らの血で神武天皇を描いた画家、伊藤彦造。その名前を見て「あの彦造?」と思う方もいるだろう。彼は超絶技巧的なタッチの挿絵を描く「神業絵師」として大正時代から戦後まで長く活躍し、現在でも根強く人気のある画家なのだ。

 明治37年(1904)に生まれ、子ども時代を大阪心斎橋の街で育った彦造は、幼いころから街なかの看板を見てはまねて描くほど、絵が好きな少年だった。
 画才の片鱗をうかがわせる一方で、11歳でそろばんの免状をとり20近く歳上の大人たちにも教えるほど利発でもあったが、体が弱く病気や体調不良に悩まされることが多かった。入学した中学校もぜんそくのために退学してしまうのだが、このころ父のすすめもあって、記者見習いとして東京朝日新聞に入社する。
 彦造が本格的に絵の勉強を始めたのはこの12歳からの上京時代で、記者兼給仕という忙しい仕事のかたわら絵師に弟子入りして腕を磨いた。彦造の父、浅次郎の記録では、ある画家に師事したところ同門生の嫉妬で退塾に追い込まれてしまったこともあったというほどで、その画才は抜きん出ていた。14歳のときはじめて仕事として請けた納札絵が残されているのだが、とても少年が描いたとは思えない色気が漂っている。

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「英明」を名乗っていた時代に描いた最初期の作品。14歳の少年が描いたものとは思えない艶っぽさが漂う。

 しかし、そんな生活が3年ほどつづいたころ、彦造は結核という重い病に冒されてしまう。その療養のために東京を離れ帰阪することになるのだが、幸い病気は快方に向かい、さらに京都在住の日本画の大家・橋本関雪に師事するという幸運を得ている。

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雑誌「少年倶楽部」挿絵(昭和2年)。

彦造を世に出した新聞挿絵と剣豪の血統

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