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「なんとなくモヤモヤ、イライラする」の原因、ついに判明。 "漠然とした不安に効く特効薬"はあるのか

「なんとなくモヤモヤとイライラ」期の過ごし方

今年に入ってからというもの、何とも言えないモヤモヤとイライラを抱えていた。

具体的には、子どもと一緒にいる時についついカッとなってしまったり、目の前のことに没頭できず注意散漫な自分に気づいたりと、こんな感じである。

そんなとき読んだ本

当初、ぼくは退屈しているのだと思っていた。だから「暇と退屈の倫理学」なんて本も読んだりした。これは良書なので読んだ方がいいと思う。

著者自身の論旨以外に、ハイデガーやパスカル、ショーペンハウアー、ユクスキュルなど、目や耳にしておきたい各界の著名な学者たちの思想に触れることもできる点が素敵だ。

「彼はああ言っているが、おれはこう思う。なぜなら〜」という展開の仕方は、説得力UPのための一つの型なのだろう。それがよく守られていると感じた。

もちろんぼくがモヤモヤ期間中に読んだ本はこの限りではないのだが、記事のトーンが小難しく説教臭くなるのを避けたいのであまり触れないことにする。それにぼくは本を人に紹介するために読んでいるのではない。何となく読んでしまうという、それ以上でも以下でもない。

読書以外にも、音楽ライブに行ったり、漫画を全巻読破したり、懐かしの格ゲーを今更買ってプレイしてみたりと、大人の経済力を発動してできる類の嗜みにいくつか勤しんだりした。

せっかくだから順番に紹介していこう。

いま、僕にとっての音楽

僕の中で現在「音楽」とは、主に日食なつこさんであり、日食なつこさんの楽曲および演奏のことを指す。

最近でた「はなよど」というミニアルバムもめっちゃいい。

春という季節の歌い方がえぐい。陳腐さがゼロである。流行りに乗って出された大手メーカーの大衆向けクラフトビールとは違う。

春は一様に誰にとっても同じ「春」ではない。当たり前だが、この作品を聴けば、「私の春があっていいのだ」と堂々とマイ・スプリングを肯定し、それがたとえ隣人とは異なる方向だとしても前に進めると思う。

全巻読破した漫画

次に、全巻読破した漫画とは?

なんとなんと、空前の大ブームから出遅れすぎだろお前、鬼滅の刃、である。

何を隠そう、ぼくはマーケティングにおける5つのユーザーセグメントでいうところのアーリーマジョリティである。しかしながら、もうすでにブームに出遅れてしまっていた場合には、断固としてその波に乗らないという天邪鬼な男である。

逆に、ブームの波が一旦引いていった後に、「NOWかよ!」というタイミングで手を出すのが僕のやり方だ。熟成ビーフとおなじやり口で「今が美味いというタイミングがあるのだ」と言い張るのだ。覚えておいて損はない。ものは言いようである。

この漫画のハイライトはぼくにとって2つある。(多少のネタバレを含む)

  1. 不死川玄弥が死ぬ

  2. 伊黒小芭内と甘露寺蜜璃の純愛

1.不死川玄弥が死ぬ

一つ目は不死川(しなずがわ)兄弟の兄弟愛最大の見せ場、21巻での弟玄弥(げんや)の死である。
上弦の壱、黒死牟(こくしぼう)との戦いの中で力尽きる弟玄弥と兄実弥(さねみ)の掛け合いは涙なしには見られない。

実弥
「大丈夫だ 何とかしてやる」
「兄ちゃんがどうにかしてやる」
・・・
玄弥
「兄ちゃんが…俺を…守ろうとしてくれた…ように…
俺も……兄…ちゃん…を…守り…たかった…」
「同じ…気持ち…なん…だ…
兄弟…だから…」

『鬼滅の刃』第21巻より

これである。兄弟愛とはこれである。

玄弥は大して強くない。鬼を喰らうことで回復できる特性があるくらいだ。

兄実弥は武の才に恵まれない弟をも強く愛していた。だからそんな弟が戦いの道を志すことを「テメェは何の才覚もねぇから鬼殺隊やめろオ」だの、「呼吸も使えないような奴が剣士を名乗ってんじゃねぇ」だのと、最大級の侮蔑を浴びせることで閉ざそうとした。兄は、弟を守りたかったのだ。

だがどうだろう。玄弥は確かに強くあろうとした。しかしそれは兄に認められるためではなかった。兄を守りたかった。兄が自分を守りたかったのと同じように、だ。

2.伊黒小芭内と甘露寺蜜璃の純愛

もう一つのハイライトは柱の二人、伊黒小芭内(いぐろおばない)と甘露寺蜜璃(かんろじみつり)の殉職シーンである。

22巻、それまで一才の色恋沙汰が登場してこなかったこの漫画の中に、急に二人の純愛が描かれることになる。

伊黒さんが他の登場人物同様に、死にかけると回想シーンに入るという展開の中、

「もう一度人間に生まれ変われたら 今度は必ず君に好きだと伝える」

『鬼滅の刃』第22巻より

と蜜璃への想いをひとり脳内で宣言する。

「え?そうだったん?」と鈍感なぼくは思った。そしてそれは叶わぬ片思いだとたかを括っていた。でも違かった。死の間際、蜜璃を抱き抱えながら優しい眼差しを向ける小芭内に、蜜璃は言う。

「伊黒さんと食べるご飯が一番おいしいの。だって伊黒さんすごく優しい目で私のこと見てくれるんだもん。」

『鬼滅の刃』第22巻より

おいおいふざけるな。話が違うぞ。柱の男性全員にキュンキュンしていたあれは何だったのか。死に際になってからの男の絞り込み方がすごい。

そして二人はめでたく来世での契りを交わす。これぞ絵に描いたような純愛である。小芭内は男の中の男だ。柱の中の柱、男柱だ。世の中の男は今後は誰しも、伊黒小芭内を目指さないといけない。

懐かしの格ゲー

そして懐かしの格ゲー、それはストリートファイターⅡである。最近になって中高年世代向けのCMに起用されており、「懐かし需要」を完全に喚起されてしまった。

3秒後にはAmazonの購入ボタンをクリックしていた。

以来、親子で楽しんでいる。鬼滅の刃しかり、二世代以上で楽しめるエンタメというのは本当に素晴らしいと思う。

ぼくはこの度、キャミィという女性キャラを使い込むことにした。ちなみに、きゃりぃでも、ぱみゅぱみゅでもない。ぼくが学生時代にプレイした時、女性キャラは春麗(チュンリー)しかいなかった。キャミィを使う理由は勝った時の決めポーズで見せる、引き締まったお尻にグッとくるからだ。

背中で語るのが男なら、キャミーは大臀筋で語るのである。

ストⅡをやりだすと問題になることが2つある。それは、マリオカートをやっている最中にも波動拳のコマンドを入れたくなってしまうことだ。そして、風呂、便所、そして近所の公園に至るまで、『波動拳』の掛け声が絶えないことである。我が家ではこれを波動病と呼んでいる。放っておくと比較的短時間で治る。

屋外エンタメにも触手を伸ばす

そんな感じでぼくは誰でもできる最低限のエンタメを楽しんだ。退屈は凌げたような気がした。だが漠然としたモヤモヤやイライラは完全には消えなかった。

インドア過ぎたかもしれないと思った。そこで屋外エンタメにも手を出してみることにした。子どもと釣りに出かけたり、山でたけのこを見つけたり、ホットプレートを購入してたこ焼きや焼肉パーティなどをして楽しんだりと、比較的簡単にできるアウトドアや家族団欒を満喫した。

旅行にも行ってみた。石垣島だ。そう、誰もが認める沖縄諸島界のガッキーである。

一番に思い出すのは、サーターアンダギーが美味しかったことだ。「え?食いもんの感想?」というリアクションは至極真っ当だと思う。色々食べてみたのだが、サーターアンダギーは”揚げたて”の一択で決まりである。だから帰ってきてサーターアンダギーの素を買った。

これで自宅でも揚げたてのアンダギー(サーターを略していいのかは分からない。)が食べられる。

現地では、「石垣牛が美味い石垣中が美味い石垣中が美味い」と呪文のように散々勧められた。石垣島は焼肉激戦区!と言っていたが、よくよく聞くと何も考えずに移住者が「飲食なら焼肉店」と店を開いた結果、飽和状態になっただけらしい。あとそもそも僕は争いが嫌いだ。激戦は他所でやっていただきたい。

ぼくはホテルでカップラーメンを食べ、「佐久間宣行のNOBROCK TV」を観た。人は場所が変わってもやることはそんなに変わらないし、インスタントな食品と笑いというのは、石垣牛と遜色ない人間の叡智が詰まっているのだから、後悔はない。

「早い」、「安い」、「美味い」、「オモロい」は、簡単にできそうでちっともできない事だと、やろうとしたことがある人ならわかるだろう。

旅に出て気づくこと

ちなみに、ぼくには「旅行に行きたい!」という強い欲求はない。それはこの記事にも書いた通りである。

だが旅には出会いがある。サーターアンダギーは物産展で買えるし、Amazonでも買える。だが沖縄に行ってない人がAmazonで買えるのは、「a サーターアンダギー」だ。つまり不定冠詞の方だ。

ところがどうだろう、石垣島帰りの人がAmazonで買うのは、「the サーターアンダギー」だ。つまり、「"あの"サーターアンダギー」だ。旅にはガイドブックに載っている「a」を、「the」に変える効果がある。

人生も旅に似ている。40年以上生きていると、流石に人生を旅に例えるのには飽き飽きだ。でもまあやっぱり似ているということでいいだろうと思う。「a 結婚」を「the 結婚」に、「a 就職」を「the 就職」に。aをtheを変えていく行為を、人は人生と呼んでいるような気がする。

思い返せば、子供の頃は「the先行」だったんじゃないだろうか。自分が体験した”それ”、が先にあり、それが世の中では”あれ”に当たる、と学んでいく。「座学」の逆、「the学」である。なんかかっこいい。

ここまで話を広げてから、そもそも石垣島旅行を、”旅”と呼ぶのってちょっと大袈裟なんじゃ無いかと思ったことは秘密だ。キーボードとnoteは人を大袈裟にする。

そうこうしている内に、最近になってようやく「なんとなくモヤモヤとイライラ」の原因が判明したのでお披露目したいと思う。

「なんとなくモヤモヤ、イライラ」する原因

なんとなくは、何かある

なんとなく〇〇というときの、”なんとなく”とは言い換えれば”よくわからないけど”ということだ。つまり”なんとなく”は、”何かあるが、それ何かわからない”という状態なのだ。

だからそれには答えというものがある程度は出せるはずだ。ある程度と付け足す理由は、答えというのはそんなに単純なものばかりではないというのが本当のところだが、そういう細かいことに目をつぶれば、という前提において、という意味である。

ではぼくの「なんとなくモヤモヤ、イライラ」の【その何か】は何であっただろうか。

ぼくは当初、退屈がぼくをイラつかせるのだと思っていた。だから、退屈を解消できるものを探した。分からなすぎてChat GPTに退屈の解消の仕方を聞いたくらいだ。だがその答え自体が退屈だったのにはウケた。

様々な娯楽に興ずることで確かに退屈は凌げたが、そもそも「退屈を解消する」という行為それ自体に、なんか落ち着かない。だからモヤモヤし、イライラする。

過去にも似たような感覚はあった。不快を放っておけないのが人間というものだと思うのだが、それを深く掘り下げようとはしなかったのだ。

逃げるとそれは、追ってくる

これまでのぼくは、それを掘り下げることではなく、それを考えなくて済むような状態に自分を持っていった。具体的には、仕事や、育児、人生で達成したいこと、新年の目標など、所謂”それらしい何か”に身を投じさえすれば、モヤモヤはいつか消えてなくなると思っていた。

でもその目論見は甘かったようだ。歳を重ねるごとにそれはむしろ増しているような気がする。後回しにしている仕事の締め切りが迫っている時の落ち着きのなさに近い。

だから今回は、もう降参することにした。これまでのように【それが何か】を考えなくて済むように、脇道ではらしからぬ本流っぽい脇道へ逃げるのではなく、いったん【それが何】であるのかをじっくりとみてやろうじゃないかという心持ちになったのだ。

ある意味ではそういう余裕みたいなものが醸成されていたことは、年甲斐が出てきたと言って良いのかもしれない。

モヤモヤの原因と、あるシンドローム

逃げずに追ってくる何かをよくみてみると、そいつは結構懐かしい顔をしていた。よく見ればそれは、自分そのものだった。

モヤモヤする原因とは、例えばこういうことだった。

「今やっていることに、自信が持てない」
「このままでいいのか、と漠然と不安になる」

これを自分が自分にカッコつけて、「モヤモヤする」と言っていたに過ぎない。

霧のような命名をすることで実体は曖昧になるが、曖昧な何かに追われることはたとえ夜道でなくとも恐怖以外の何物でもない。

「なんとなくモヤモヤ、イライラ」する原因とはつまり、「このままでいいのか」という漠然とした不安であった。芥川龍之介が生前書き遺したそれと同じかはともかく、そうだったのだから仕方ない。

この『このままでいいのかシンドローム』は他の生活習慣病と同じように、場合によっては死に至る大病を招くかもしれない。そんな恐れがあるから更に自分を苛立たせる。ただ今は無駄に不安を煽るのはやめよう。最後にはこの霧が晴れると信じてこの記事は書かれているからだ。

「このままでいいのか」と聞いてくる奴の顔を覗き込むと

追ってくる【何】かをよくよく見てみることにした。そうすると、そこには『このままでいいのか』と脅迫してくる自分がいただけだった。その声は、聞けば聞くほど、オレオレ詐欺みたいなものだと思った。

オレオレ詐欺は俺じゃない俺が困っているので助けてほしいと親子の情に訴える手法だが、この場合は、「このままじゃダメでは?」と俺が俺に不安を煽ることによってなんらかの情報商材を売りつけてくるタイプのやり口らしい。

実際このような状態の時ほど、意識高い系ビジネスメディアのサブスクや、自己啓発本を大量購入し、いっときの精神安定剤のように己に処方するといったことをしがちだ。

なんだ、こういうことだったのか。落ち着いてじっくり観察すればするほど、これまでの人生は1人SMの世界だったのではないかと思えてくる。

S「このままでいいのか?」
M「いいえ!このままじゃダメです!もっと激しいのをください!」
S「女王様とお呼びなさい!」
M「女王様!ああっ!痛い!」
S「もっともっと痛いのがお望みだろう!それとも何か?このままがいいのか?」
M「いいえ!もっともっと痛いのを!」

モヤモヤの沼地に潜り過去を振り返ってみると、安物の自己愛に鞭を振るわれることで、他のすべてのことから鈍感になろうとしてきた自分が丸裸になって恥ずかしかった。

安物の自己愛とは、レベルの低い親が我が子に対して「あんたのためを思って」教えるすべてのことと同じだ。ここには同情や卑下とも呼べる過剰な謙遜、安定と不変の混同など、さまざまゴミ価値観が含まれる。要するに享受してもあまりいいことがない。

それは甘美な味をしている。どんな自己愛であれ「無いよりはマシ」だと思ってしまう。しかしそれが豊かさとは程遠い人間の発想であることは、言うまでもない。

「なんとなくモヤモヤ、イライラ」するの終わらせ方

対処法ではなく終わらせ方を考える

この手の類の記事では、「〇〇の対処法」という締めくくりを用いがちである。安易なので結構やってしまう。

でも初めて家にゴキブリが出た時の夜のことを思い出してほしい。初めて彼氏が我が家に来た日のことではない。きっとあの時のあなたは、彼(=G)1人をどう追い返すかではなく、親子ども、親類、友人にいたるまで仲間全員が死滅することを切に願ったはずである。そしてほぼ徹夜明けの朝にゲッソリしながら、満員電車に乗り込んだあの日のことを、あなたは忘れてはいないはずだ。

つまり必要なのは、対処法ではなく終わらせ方なのだ。この記事はそんなぼくらの滅殺欲に応えられるだろうか。自信はないが書いてみよう。

確信を欲しがる理由

そもそも、「このままでいいのか」と、今やっていることになぜ確信を欲しがるのだろうか。それはきっと、傷つくのが怖いからだ。

やってみたけど無駄だった。うまくいかなくて悔しい思いをした。一生懸命やったけど否定された。そうやって傷つくのが怖いのである。

学校に通っているうちは、「こうしたらいい」は明確だった。問題が起こらないことが正解であり、間違っても一生懸命頑張るというフリをしていれば大抵のことは正解になった。

そうやって生きているうちは、他人の顔色を判断基準に答えを出せる。でも自分がそこから放り出されたときに、同じように誰かに判断基準を求めても、応えてくれる人はいない。ほとんどの人が就職をし、上流から流れてくる仕事という魚を口を開けて待つ生活を選ぶ理由は、自分で何をするかを決めることが、ひどく苦痛だからだと思う。

「これをすればいい、あれをすればいい」。そういう風に自分で決めて、自分で進めて、ゴールまで辿り着くという経験が少ないか、あっても幼稚園生の頃のことで、忘れてしまっている。

「社会に合わせる」モードに一度最適化してしまうと、なかなか「やりたいように、やりたいことを」というモードに切り替えるのが難しくなる。

だから退屈は「やりたいことを自分で見つけて、自分で選んで、自分でやる」に確信が持てない現代人にとって嫌いの対象になる。退屈を感じると「なんとなくモヤモヤ、イライラ」してしまうからだ。

川下で魚を待つ生活が辛いと思っているのは錯覚だ。だからみな「空も飛べるはず」と自分が”自由”を望んでいると信じて疑わない。でも一度”空中”に放り出されてみたらわかる。しばらくすればすぐに強い不安を感じるに違いない。

世の中に医療辞典には載り切らない星の数ほどの依存症が存在するのは、暇と退屈をみんな恐れているからだと思う。

約束しよう。あなたには「人生を通してやりたいこと」なんて見つからない

だから人は退屈を埋めてくれる何かを求める。景気が悪いと世の中がどんよりする理由は、お金が無くて物が買えないことが辛いからではなく、退屈に対して消費という鎮静剤を好きに打てない状態が辛いからだと思う。

ではどうしたらいいのだろう。普通は「あなたが人生を通してやりたいことを見つけましょう」などという退屈な提案をするものだが、それでは「なんとなくモヤモヤ、イライラ」するという現象は終わらせられないだろう。なぜなら、ほんの小一時間の使い方に確信が持てない人に、人生を通してやりたいことなんて見つかるはずはないからである。

それこそ、「人生を通してやりたいこととはこれでよかったのだろうか」シンドロームに苛まれるだけである。あなただけじゃない。「人生を通してやりたいこと」がある知人は少なくともぼくにはいない。

そろそろ腹を括るのである。「このままでいいのか」シンドロームを終わらせるために一番大事なことは、そういった特効薬を求めないことなのだから。

「このままでいいのか」という不安感は自分の感情の問題である。それを、安易に「生きがい」だのという広く一般に流通したテーマに変換してしまうのは、広く一般的なテーマには必ず解答が用意されていると思うからだ。

だが「生きがいがあれば生きていけるよ」という成功者たちも、決してあなたに合う生きがいを探してくれるわけではなく、それが見つかる保証なんてハナからないのである。

だから安心して諦めていい。いや諦めろ。恋が成就するときというのは、自分は結構マシな人間でしょう?という自意識を捨てた時だ。それと同じで、自分が自分の期待以上の自分であることを捨てた先に、晴天はやってくるのである。

面白い人間になれ

ここからは、人生に二度と漠然とした不安が訪れないよう、その終わらせ方を提案しよう。

いいか。よく聞いてくれ。「このままでもいいのかな」なんて考えても、分かるはずないのである。簡単に言語化できるくらいならそもそも漠然と不安になんかなるはずはないのである。

そして、「このままでいいのか」と疑問に思わないからこのままでいいとは限らないし、「このままがいい」と思っていてもこのままでいられるとも限らない。

つまり、未来に確定していることなんかなく、確定していたら確定していたで、またきっと違う形でモヤモヤするに違いないのだ。

じゃあどうしたらいいか。答えは、「面白い人間になる」ということだ。

我を忘れて没頭できる「楽しいこと」なんか探さず、人生を通してやりたいこと、やるべきこと、使命なんか探さず、誰かがそれを提供してくれるなんて期待せず、自分から「ちょっとずつ面白い人間になる」のだ。

つまり、誰かや何かに楽しませてもらうこと、誰かや何かに不安を忘れさせてもらうことを諦めて、もう自分という存在が自分で面白くて仕方なくなる他はないのである。人生にこれ以上やるべきことなんか最初からない。

若い時に2,3回ヒットが連続しただけで、多くの人は自分が面白い人間になれたと勘違いをしてしまっている。仕事で評価される、彼氏ができる、結婚する、子供ができる。そういう出来事が自分を面白い人間にしたと勘違いしてしまう。それは大間違いである。

胸に手を当てて聞いてみるといい。「私は面白い人間ですか?」と。

「このままでいいのだろうか」なんて悩む人間が面白いわけはない。自分の脳みそと心の中に何も詰まってないから「このままでいいのだろうか」なんていう常套句に反吐がでないのである。

安心していい。面白い人間を志す限り、あなたにやるべきことはたくさんある。

すべては面白さのための修行である

面白い人間とは何によって生まれるのだろうか。答えは明白で、それは日々の修行である。

修行というのは仏教用語みたいだが、何も滝に打たれるとか、断食するとか仏の教えに沿うことだけを修行と呼ぶのではない。安直に判断するのは面白くない人間の特徴である。

「自分は面白い人間だろうか?」と考える限り、すべては修行になる。

  • 旦那の小言への切り返し

  • 初めての図書館

  • 急にできた小一時間

  • 子どもと過ごす雨の日曜日

「面白い人間がする行為か?」と考えれば、「これでいいのか」なんて漠然と考えることはなくなる。全てが面白さの修行になるからだ。正解かどうかを悩んで、焦ったり、イライラして子どもに八つ当たりすることもなくなる。面白さに唯一の正解などあるわけはないからだ。

退屈もしようがない。というか退屈だと思うのは自分の面白くない心のせいだと思うようになるだろう。そう思った時、あなたは退屈しているほど暇ではなくなるはずだ。

ウィットさが面白いと感じるなら、ウンチクを蓄えて小出しにする練習をするといい。旦那の小言に何を言ってやろうかと脳はワクワクし始めるだろう。図書館は積読を想像してうんざりする場所ではなく、タイトルをたくさん眺めてキレのあるフレーズを自分にインストールするフリースポットと化すだろう。

とにかく他人のことばかり考えてしまう自分を面白いと感じるなら、それを活かそう。完璧なまでにおせっかいなのに、それでいてありがたいと思わせよう。あなたに才能があるかどうかは、あなたがそんな自分を面白いと思えるかどうかでわかる。

兎に角、昨日より今日、今日より明日、ほんの少しでいいから面白い人間になるように努力することだ。

人によってはそれが語彙量という目に見える形で測れるかもしれないし、家族が笑ってる時間が増えていくという形で現れるかもしれないし、いずれにしても現実的に変化が現れるに決まっている。努力は裏切られないのである。

修行に楽しさは必要ないという人もいるだろうが、しばらくして、自分を面白くする修行は思いのほか楽しいとあなたは気づくはずだ。

そして修行が1年ほど経つ頃あなたはこのことにも気づくのである。世の中の面白い人間はみんなそれをしているということに。それをしている風に見せてない、見えてないだけだということに。

面白い人間は1人残らず修行をしている。今日今、この瞬間もである。その中身は千差万別だが、そのそれぞれが違っていて面白いと感じた時が、あなたが自分の面白さを認め始めた時である。

面白さのための修行をすることで他に何が得られるだろうか。一番は、他人にどう思われるかが気にならなくなることだ。うまくいかないことがあっても、自分のためだけの、面白さの修行中なのだと思えるのである。

それと、あなたが今日より少しだけ面白くなった明日を想像してほしい。それはきっと、あなた以外にとっても悪くはないことのはずである。


ありがとうございます。きっとあなたにいいことがあります。