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【連載小説】聖ポトロの彷徨(第17回)

何日目かはもう分からないし、どうでもいい。そんなことより、記録だ。最後の記録を。

底は、あった。今私は底にいる。

死の淵に立つ私には、この驚くべき光景に感動している余裕などあまり無い。だが、この場所がちっぽけな私の最期を飾るには、身に余る絶景であることは、おそらく間違いあるまい。

その時が来る前に、ここにたどり着くまでの経緯を記録しておこう。

先の激しい地震の最中、私は激しく壁に叩きつけられ、階段を転げ落ち、そしてまた壁に叩きつけられを幾度となく繰り返した。どのくらい耐えられたのかは分からないが、私の意識が消失するまでに、さほど時間はかからなかったろう。
気が付くと、私は完全な暗闇の場所で、仰向けにいびつな形で横たわっていた。立ち上がろうとしたが、足が両方とも折れているらしかった。右手もブラブラで使い物にならない。歯と肋骨も何本かずつ逝ってしまっていた。体中が激しく痛み、力がほとんど入らない。かなり熱があるのだろう、意識がかなり朦朧としている。

朦朧としながらも、激しく脈打ちながら私の体を蝕む痛みに、自分がまだ生きているという、悲惨なる事実を確信した私は、せめて理解できる範囲で、周囲の状況を知ろうとした。
とはいえ、視界は完全なる暗闇のためゼロ(いや、失明しているのかもしれない、とも思った)、音も全くない(自分の息遣いと悲鳴だけは聞き取れたので、聴覚は生きているみたいだった)、分かるのは背中に感じる床の感覚のみ。私の体温のせいだろう、この床が生暖かく感じられるのは。

そこでふと気づいた・・・この場所が、階段ではないことに。

『底だ!』
その考えは、瀕死の私を奮い立たせるのに十分だった。
とうとうたどり着いた。せめて死ぬ前に、どういう場所か確かめなければ。任務とか知的好奇心とか、そんな大層な動機ではなく、これは意地だった。私は単純に、自分に死をもたらすであろうものの正体を知りたいと思ったのだ。

小さな悲鳴を何度も上げながら、私は仰向けのまま暗闇をずるずると這い進んだ。体を少し動かす度に、べちゃり、べちゃりという何とも不快な音が響く。全身に強烈な痛みを感じつつも、歯をぐっと食いしばって左手を伸ばす。

この、絶望の、底に、何か、無いのか・・・

何かあったとしても、もはや私にはそれを手に取ることすらかなわなかったかも知れなかったが、それでも、私は進まずにはいられなかった。


突然、体が宙に投げ出された。
音も立てずにいきなり床が抜け、私は光の中を激しく落下し始めた。久しぶりの光、ただまぶしくて目を開けていられない。動くほうの手をじたばたさせながら、私は耐え難い無重力感にほだされ、子供さながらに情けない叫び声を上げながら、どこかへ向かって落下していった。

着地は予想外にスムーズだった。どうやらトランポリンのような柔らかいものの上に落下したようだったが、それでも崩壊寸前の私の体は激しく歪み、もはや私にはどこが痛くて叫んでいるのか自分でも分からないほどだった。
着地がひと段落ついたあとは、うう、とか、ああ、とか、文字にしにくいうめき声を上げ、強烈な光量にさらされながら、私は瞼を貫通する光に目が慣れるのを待った。

再び長い時間気を失っていたのだろうか、やがて目を開けると、周囲の光量は幾分か減少しており、色はまるで夕焼けのようなオレンジ色に転じていた。この時になってようやく、私は再び機能するようになった目で周囲を観察することができた。


言葉にならない驚き。

私は瀕死であることも忘れて、その景色を理解しようと努めた。


山が見えた。私は当初、自分が巨大な土の山の上に浮かんでいるのだと思った。山の頂上に設けられた透明なドーム、その一番上に浮かんでいるのだと。
だが、私の平行感覚は、その山は空の方向から下に向かってそびえており、私はすり鉢状のその地形を下から見上げているのだ、と告げていた。

鋭い痛みできしむ首を回すと、私の真下(仰向けの体位で言うと背後になる)に広がる大洋が目に入った。あらゆる方向が海で、周囲は完全に水平線だった。

オレンジ色の巨大な太陽が、ゆっくりと、水平線の遥か向こうに沈もうとしているのが見えた。これらの観察を総じて、やはり逆さ向きの土の山が頭上にある、というのが正しいようだ。

私の周囲は、透明で柔らかい膜のようなものでできているらしい。ちょうどすり鉢の底からたれている滴のような形をした場所なのだろう。

ここがどんな場所で、この景色が何を意味しているのか、それはもうどうでもいい。私はまもなく死ぬだろう。この怪我で、たどり着いた場所がこんな場所だ。助かる見込は全く無い。それに、あれだけ階段を下りたのだ、タイムリミット時に回収班が私を見つけてくれる可能性も少ないだろう。

ここはとても静かだ。海の音も風の音も聞こえず、自分の呼吸の音すらどこか遠くの出来事のように感じられる。日は少しずつ翳り、じわじわと這い来る宵闇が、頭上の土の山をだんだんと紫色に染め上げてゆく。

美しい、と私は思った。サバラバは、やはり美しい場所だった。


眠くなってきた・・・私はもう疲れた。そろそろ休んでもいいだろう。

この記録は誰にも知られないまま、この謎だらけの惑星で砂になるのだろう。私の体も、そして心も然り。それも一興だ。

【記録終了】



「ニンゲンのトリセツ」著者、リリジャス・クリエイター。京都でちまちま生きているぶよんぶよんのオジサンです。新作の原稿を転載中、長編小説連載中。みんなの投げ銭まってるぜ!(笑)