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【5日目】一切皆苦の『地獄』を生きる(ジンセイのトリセツ)

◆この世は大いなる矛盾が支配する地獄である

 これまで僕たちが暮らしている「ここ」「この世」がどんな場所なのかを考えてきました。結果として、この世界は

【大いなる矛盾】

というものに支配された

【地獄】

と呼ぶべき場所である、という結論になりました。
 この【大いなる矛盾】というのは、ひとことで言うと

自分が殺されたくないのに他者を殺して食べないと死ぬ

という、この世界を支配する恐ろしいルールです。まるで最近よく映画やドラマになる「デスゲーム」みたいです。

 こういう「恐ろしい世界」であるがゆえに、この世界に僕は

【地獄】

と名付けました……ですが読者の皆さんの中にはこれを「そんな大げさな」と思う人もいるんじゃないかと思うんです。

 でも、この世界を【地獄】と呼ぶ根拠はまだあるんです。

 たとえば……僕たちがこの【地獄】から脱出して、他の世界に行く方法はあるのだろうか? と考えてみると、その方法はたった一つ

死んでしまうこと

だけなんです。この、本能的に「一番イヤなこと」を経ないと僕たちはこの地獄世界から外に出ることができない、というものすごくイヤラシいシステムになっているんです。よく考えられてますよね……こうでもしないと、みんなここが【地獄】だと気づいたらとっとと逃げ出すはずです。

 そう、逃げられないんですよ……僕たちはこの世界に『囚われている』んです、文字通り「この」の「牢」に。だからこの世界を【地獄】と名付けるのは、まさに『言い得て妙』なのではないかと思っています。

◆ブッダと『一切皆苦』の教え

 ところで、2500年前のインドに「ゴウタマ・シッダールタ」という人がいました。この人は29歳のときに苦行で死にそうになったけど生還し、そこで気づいたことをたくさんの人に話していきました。その教えを多くの人が本にまとめ、やがてそれは仏教という宗教になりました。

 そう、この人こそ「お釈迦様=仏陀(ブッダ)」その人です。その仏陀の有名な教えにこういうものがあります。

この世は【一切皆苦】である

 これは「この世界は苦しいものだけでできている」という意味です。豊かな現代に暮らす僕たちがこういう話を聞くと

「そうか? 楽しいこともあるやん?」

という感覚になるかもしれません。モトで考えると、モトがココロにたくさんあると「幸せな感覚」になるので、たしかにそうではあります。

 ですがそういう楽しい・嬉しい【個別のドラマ】というのも、全てはさきほどの

【大いなる矛盾】の上で成り立っている

ということが言えます。他の生き物とイノチのやりとりをする「生きるか死ぬか」の恐ろしい綱渡りの上でしか、この楽しい・嬉しい【個別のドラマ】は起こらない、ということなんですよ。

 だから、やっぱりモトから考えても、お釈迦様(仏陀)のこの「一切皆苦」という考え方は本当に的を射ているんです。

 つまり僕たちはこういう「一切皆苦」の世界で、死ぬまで【大いなる矛盾】をやりながら、その上で楽しい・嬉しい【個別のドラマ】を見つけていかなければならない運命にあるわけです。

 そりゃ「人生はツライ」なんて当たり前のはずです。これを読んでいる方の中で、今もし何らかのツラさを抱えて人生を「やって」いる方がいらっしゃるなら、それは至極当然のことだと言えます。
 この世は【地獄】だからです。


◆『地獄と天国』しかない世界

 とまあ、ここまで僕たちがいるこの世界が【地獄】である、という話をしてきました……ここまで読んで「こんなネーミングなんだから、当然【天国】もあるよね?」と思っている方も多いんじゃないでしょうか。

 そう、あるんですよ【天国】

 でもね……多分、この【天国】にあたる場所は、言うほど【天国】でもないというか、少なくとも僕たちが想像しているようなフワフワ楽しい場所じゃないというか……
 その辺の話を次回からしていきますけど、その予備知識としてこのことをお伝えしておきます。

 世界は「二つ」です。【地獄】と【天国】です。

 僕たちは幼い頃から

『今いる「この世」から抜け出して死後の世界へ行ったら、閻魔様だか審判だかそういうのに、いくつかの世界に分けられて連れて行かれる』

といった内容の話を散々聞かされていたでしょうけど、モトの観点から観察すると世界は地獄と天国の

「二つ」

です。「三つ」でも「六つ」でも「一つ」でもなく、二つです。


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「ニンゲンのトリセツ」著者、リリジャス・クリエイター。京都でちまちま生きているぶよんぶよんのオジサンです。新作の原稿を転載中、長編小説連載中。みんなの投げ銭まってるぜ!(笑)