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『きみはだれかのどうでもいい人』を読んで

喉の奥が、ぎゅうっと狭まって息がしづらい。

他人に見透かされたくない本音を、お前も持っているんだろう、と冷たい目が私を捉えている気がする。だから苦しかった。


『きみはだれかのどうでもいい人』 伊藤朱里

タイトルの妙な吸引力に導かれて手に取って、そこに描かれている人々の仕事と生活に私まで息苦しさを覚えた。

リアルすぎる。それでいて、本当の日常と同じように、ただずっと続いていくのだと読者も諦めないといけないところが、まさに人生だって感じがした。



県税の事務所を取り巻く4人の女性が語るのは、年齢もキャリアも性格も、それぞれ異なる日常だ。税の取り立て員も、部のお荷物も、お局様も、狭い箱の中で互いの波紋に少なからず影響を受け合う日々を過ごす。

だれにどんな過去があるかも、だれにどんな生活があるかも、本当はみんな理解することはできないし、そもそもちゃんと理解しようなんて歩み寄っていない。

傷つきやすい人は苦手。自分が傷ついたという事実にばかりこだわって、その原因や周囲の状況にまるで注意を向けようとしないから。

第3章 206ページ

家族とか、お友達とか、誰でもいいんです。あなた自身が心を開いて話せば、きっとわかってもらえますよ。
そうだな、とあたしも思った。でも、つらいときにつらいと言ったところで、もっとつらい、が返ってくるだけで、あたしはやっぱり、そうだな、と思ったのだ。

第2章 159ページ

人には、誰でもその人らしく生きる権利がある。
あの若い人事課職員はそう言った。そのとおりだ。弱い人間、集団になじめない人間、みんな等しくその人らしく、自由に生きるべきだ。ただ、それが「こちらに迷惑をかけなければ」「目の届かない場所に居てくれるぶんには」という条件つきであるという事実からはだれもが目を逸らしている。

第4章 322ページ

ただ、誰もがつまづいたり傷ついたり歪んだりした自分の傷は、忘れることができないでいる。

そしてその過去の多くは、誰かを壊してしまったときに決定的に消えない烙印となる。

あのとき話を聞いてあげなかった、思わず声を荒げた、わかっていて傷付けた、相手の気持ちを汲んであげようとしなかった。

嫌いな人に向かって撒いた黒い水が、自分の白いスカートを汚した時のように。

相手への苛立ちと同時に、自分のしたことが許されないという恐怖に囚われながらも、毎日素知らぬ顔の仮面をつけて生きていくしかない人たち。それはこの物語に限った話ではなく、誰にでも覚えがあることではないか。

愛情とナイフの脆いバランスが、私たちの生活には確かに存在している。



この小説は、見逃してくれない。安易な救いをくれない。

心の中の黒い部分も、善意をまとった自意識も、ありとあらゆる自分本位な場面が物語によって引き摺り出されてくる。

だから苦しいのだ。

大切な人に向き合って大切にしたいから。
どんな人でも誰かの子供と思って許さなきゃ。

そんな綺麗な言葉が、この仕事場の空気の濁った箱の中で、一度でも実現したことがあっただろうか。

私が無意識に庇っているものはなんだろう。
私がいつも親身になっている存在は?
その陰で知らずに傷つけているのは誰だろう。
そしてそれを仕方ないと思ってはいないか?

そういう潜在的な問いが、読書によって渦巻き始めてしまう。

だって、みんな一生懸命だもの。自分が生きるのに必死で、それぞれの人生ぶんしか世の中をわからないんだもん。

誰だって、誰かの視界から外れた場所にいる、傷ついたって別にしょうがないなって思われている人間なんだよ。

言い訳を見つけたくって思わず顔をあげるけれど、そこは見慣れた6畳間や満員電車のおじさんの隣で、本当に終わらない日常が窮屈に続いているだけだった。

それぞれの抱く彼らなりの懸命さは、救いではない。どちらかといえば、大きな絶望だと思う。

葛藤する日常のせいで、せっせと誰かを傷つけあっていること。それに誰も言い訳できないけれど、できればそんなところは見られたくないと思っていること。許されたいとどこかでは自分本位に願うこと。



登場人物の誰かの声に共感したら、それが別の誰かを傷つける引き金を引いていることにも気づいてしまう。この小説は私たちの本音を見逃してくれないし、私たちが傷つけた人の存在を思い出させる。

最近は感じたことのなかった生々しい息苦しさを感じたこの小説は、読者に生活の自覚を植え付けるだろう。その自覚にもがきながらも、生きることへの解像度が上がる読書体験となること間違いなしだ。




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