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短篇小説『臘月の人魚』

 すでにエレキの断ち切られた部屋にいるからか、白ペンキの剥げかけた洋窓から灰色の光がそそがれているせいか、世界がモノクロオムに思えた。窓から視おろす瓦屋根のやや斑な藍も、庭の鬱蒼とした常緑樹も、燃え滓みたいに沈んだ色で、そのむこうの遠い町なみに至っては、輪郭さえも朧な蜃気楼だった。 
 ぬくもりもないが、北風もない冬の日。黒マントのバンパイアがやさしく襲うようなすばやい夜の訪れの前に、このから屋敷を出なくては……とは云え、闇を淫靡に探って去るのも悪くなく思える、セエタアに丹前を羽織り、襤褸ぼろの絨毯に胡座をかき、安酒をなめる待ち時間であった。木の階段を、ひとつの踊り場を経てとん、とん、とのぼってくる足音が、いたままの自室の扉にたどりつく。
「先生」
 扉にて発せられるのに、声はまだ階段の踊り場か、或いは天井か、或いは私のうらにあり、響くというより香を焚かせているような……いつもそうだった。やはりこの屋敷での、出逢いの日から。くちびるのうごく場所に声が、言葉がなく、蝶のようにあらぬくうを舞い、かと思えば肩にとまり。 ふりむき視た青年Yの佇いも、幾年経ても変らない。何か秘密を紗にかける風にややうつむきがちな顔、凛として空を切るふうな輪郭。ひと筋も乱れのない髪と、まつげの奥にたゆたうおおきな黒眸こくぼう、ほそくやわらかにとおった鼻すじ……齢は青年ながら、性の分化にも到らぬ止り木できよらな羽をやすめる風情。かつては詰襟の学生服、今は糊のきいたシャツとスラックスが、いずれにせよ身にそぐわず、鎧の如く着ぶくれ……

「お時間いただいて、申し訳ありません、先生」

……そして、青年Yは、透けている。喩え話でなく、彼が霊というのでもない。私の正面に来たちいさな顔とながい首は、そのむこうにあるコンクリイトの白壁をうっすらと透かしており。髪も眼も白とまざれば銀に光る。つつましい声と言葉をつむぐ淡い桃色である筈の脣は、それじたいの艶をもちながら凍ったように色をなくして視える。

 透けた人間が時折いると、話には聞く。その誰もが表だった場には姿を現さず、ふかく交わりもせず。同種で集まるか散るか、住処も知れぬ、とも。

「かまへん。もうする事もないさかいに」
 彼を前に、己の嗄れきった声が恥ずかしい。Yの掌に積る、綿雪の如く白くちいさな花のあつまりに眼を遣る。庭の奥に冬咲く花をYは毎年摘み、そして部屋にあるからのまるい金魚鉢に水を溜め、粒状の花をひたす。融けぬ白雪は不思議に水面みなもに留まらず、浮いては沈み、鉢の惑星もしくは小宇宙コスモスをめぐり、ゆっくりと泳ぎ。鉢にそえたYの指に、手首にも花が透け、まるで少女へ飾られるように踊るのが視えた。
「持って帰ればええものを。君のところでも咲くかもしれん」
「……いえ、よそにあってはこの花は咲きません。最後にここで眺めたかったのです」
 感傷的でなく、さながら儀式における巫女めいた風情。 粒状の花がつどい咲く風情は小手毬に似るが、花蕊かずいの存在がよく判らず、儚げで、冬にしか咲かない。父が昔、山の高みで採った小木を庭に植えると、土か、この屋敷の寒々しい空気が肌に合ったか、根をはり、繁った。朽ちおちた花と葉がまざり変色していたのを拾い擦ると、現れたのは、青。私や、おそらく美術に携わる人間や世間一般から視ても、濃いとも淡いともつかぬ、さして珍貴でも深遠でもない、陰鬱でセンチメンタルなだけに感ぜられるその色に何故か父は心酔し、幾年とかけ顔料とする術を見いだし、画に用いた。此の地方でのみそこそこ知られる画家である父は、乞う人々を屋敷にいれ教えた。そのひとりがYで、彼だけは何故か父の描く青をたっとび、青を生む白い花を愛でた。顔料には花より葉を多く遣う為、遺される花をYは摘み、父の居ぬ際代理講師であった私の部屋の金魚鉢に水をそそぎ、冬の花を踊らせ。
「内緒にしてください」
 ふだん表情を変えぬYが、私にそう云い、まるで禁忌でも樂しむふうに脣を艶とともに微かにもちあげる。私は気にも留めぬふりをして、雪を光を映す銀のまなこ、まるい鉢の小宇宙を護るような、雪と水の戯れを透かすかぼそい指を盗み視た。

「………先生の青に幻を見ます。知らぬ筈の生れおちる前の世、または風ふくついすみか。記憶の底の郷愁か、それとも哀しい予感のような………御免なさい」
 を語る資格などないと恥じるか、耳をほんの僅かに赤らめる。雪の花にかおりはないが、Yの脣から零れるすくない言葉が、部屋にしみたアルコオルや絵具のまざった匂いを消し、雄花でも雌花でもない禁欲的な馨でつつむ。父のことも私のこともおなじに「先生」と呼ぶことに、怒りとも焦燥ともちがう、筆をとる指が異様に冷え鳩尾あたりが燃えるような感覚をおぼえつつも、鎮まる。

 幾年と過したそんな日々が、今日終る。秋に父は死んだ。屋敷を存続できるほどの財も後継も遺さず。私は父の画風を愛せず、父の愛した青の顔料を作る術も教わらなかった。Yもきっと知らない。弟子にもいたらぬいち生徒に過ぎなかったから、だけでなく……
 Yの、透明と云うより澄明ちょうめいな有りよう、次元をも狂わせる危うく且つかぐわしい存在を前にすれば、画に携わる者は概ね、執着や熱情が深ければ深いほどに、惑いと疑問を抱かされるだろう。
『今まで、己は何を描いてきたのか?』
 と。
 いつだったか、父の個展にながく関わった画商の男が、視界の隅、人前ではキャスケット帽を深々と被ったYを視て。
「……あれは、『透け』の子ですな。先生も又、なんであないな子を、身近に……」
 と、眉を顰め、私の耳に。それは少数民族への蔑視という含みもあろうが、何よりこの業界への、『商売妨害』を意味していた。殆ど公にされていないが、とある大御所、はたまた前途を有望視された若手が、みずから筆を折ったうえからだ迄もあやめたのは、所謂『透け』の者と邂逅したからではないか、と囁かれている。唯軀が透明なだけで、いったい何なのか、という話だが、Yを含む彼等には、画にも像にもけしてあらわせぬ何かが、ある。姿の即物的な美しさとか、総じて控えめらしいボタニカルな性質だとか、ありふれた『透けぬ』人間たちへの畏れだとか、そんなことではなく。そもそも我々とおなじ次元やアトモスフィアに存在しえなかった筈の魂、焔より離れひやしかたちを整えたばかりの硝子か、それよりも非現実的に静謐で肌理きめこまかな燿きが、Yの発する声とおなじに、憑かれそうなほど溶融ようゆうするほど側に感じるかと思えば、星の光ほど時間が距離が、幾度死んで生れようと届かぬ果てにある、そんな、Yに限らぬ『透け』の者たちがもつ切なさを、つれなさを、幻影を、潔さを、そして奇妙なあたたかみを、誰にも描く、もしくは彫りおこす術はないのである。そして、いちど彼等と交差……ふかく関わってしまった芸術家たちは、それ迄の『ありふれた』『透けぬ』ことすら、描く気力をうしない。

 片隅で評されるていどの画家である父だって、それは解っていた筈だ。Yと居れば居るほど、己の産むざわざわと色の塗られただけの平面なぞ、むなしく霞む一方となることを。

「私と近しくなると、先生も透けてしまうかもしれません」

 あの言葉は何時いつだったか。庭の奥のあの花木、葉はすでにむしられ、儚き雪の花に反しいばらのような枝をむき出し四方八方に這わせたなかに、灰色のYは居た。光さす隙間もなく、まるで堅固な檻に幽閉されているかのよう。残りすくない花を摘もうと無防備にもぐらせた掌に、赤い珠を産んだふうに視えた。うつろな彼の腕を掴み。零れおちる花。坂に面した庭を、駈落ちでもするようにのぼり、水撒き用の蛇口を思いきり捻り、流した。……血でなく、顔料だった。私より三寸ひくい彼の、背後のうすぼけた草色を纏った脣の肉と、水滴と私の野ぶとく荒くれ毛のはえた指を透かすやわらかな架空の硝子の手首を前に、濁りなき彼を穢すこの世の総てへの憤りと、裏腹にルビイの珠を欲した己の婬情とがまざり、うごけなかった。そこにYは囁きを、明日の天心に昨日の踊り場に、また今の私の裡、また私をすりぬけた別の架空の世界に、馨らせたのだ。

 女中に呼ばれ視た寝室の父は、眠るように息を永久にとめていた。顔に朝の光が天国の階段よろしく無邪気に、もしくは一刻もはやく腐らせ骨にせんと、さし。肝斑かんぱんと皺だらけの皮膚ゆえ判然とせぬが、彼の下に有る筈の白い枕や敷き蒲団の繊維が、微かに透けて視えた気がした。

 やはり日暮れははやい。水流のひと筆で描かれた奇跡のようなYの横顔の輪郭も首の下でふくれた鎧シャツ、ベルトの孔をたし締めあげたほそい腰も、風もなしにいつ迄も廻っている金魚鉢の雪も、私が小瓶の酒をだらだらと干した頃には、消えいりそうだった。庭で最後の花を摘む彼を視るのはさけた。荊の檻を出て、鉢の雪を纏うモノクロオムの傷なき左手だけを焼きつける。Yは私へとむきなおり。
「これ迄、有り難うございました、先生」
 と頭をさげた。
「……それは、父に云うたってください。僕は『先生』やおまへん」
 つきはなし気味に云った。Yは此方を例のうつむきぐあいで視るようだが、表情はもう闇にあってわからない。それでもその姿はほかならぬYだ。鎧からでも読める手折たおれそうにほそいのに骨ばらぬ終りなき流麗さを帯びた軀、我々の眼に映らぬ、深山か深海にかくすが如き意思の有り様を、父は命懸けでも描こうとは思わなかったか。思っていたのか? 遺品にはかるい素描デッサンの一枚すら視あたらず。
「……失礼をいたします。何卒、御元気で」
 頭を喰いちぎってしまいそうなキャスケット帽をふかく被り、Yは、立った。荷もなく。父の画を、どれでも好きな物を貰って欲しいと幾度も云ってきたが、最後迄首をふった。童のような身軽さでとん、とんと階段の音を響かせ去る。青にならなかった今年の花を彼は摘みきったろうか。美しい手から童話みたいに溢れる花をふりまき、白き足跡を遺したか。Yの音、何処へ向うか読める筈もない音を完全に消える迄追ううち、私の眼に映る光も胸にある光も去り、ほんとうに闇となった。おかしなことに、町も灯がつく様子がない。前も後ろも、今いるのが襤褸の絨毯のうえなのか、感触すら、なんだか麻酔でも打たれたふうに痺れて、危うくなり。 彼は、俺は帰れるのか。帰るて、どこへ?……そもそも彼は誰やったんや。俺も誰や。透けるどころか、軀がのうなってしもた………

………やがて、闇のなか、何か色が視えだす。湧き水の如く、空間がふるえ。はじめは闇の漆黒がつよすぎわからなかったが、色は水溜りとなりひろがり、暗いながら世界を描く……これは……青だ。父とYだけが愛でた、あの『青』。ほかの誰も留意しなかった色だが、識別は私にもできる。……そして総て視えれば何の事はない、変らず自室にいた。だが、妙だ。酒瓶と金魚鉢がどこにもなく、かわりに倒れそうに物が溢れた書棚や机や椅子、そして画材など、処分した筈のものがあり……それでいてどれも、刻を戻したというよりは、いっそう使いこまれたふうに壁はくすみ陽に灼け、棚のスチイルは錆び鎧戸は横板が幾つか折れ、以前より明白にふるびている……絵具はパレットからはみ出して、かつてないほど暴力的に、床にカオスを産んでおり……それら総てに、『青』のフィルタアがかかる。
 外はどうか、と窓から身をのりだすと、雪が、降っていた。……いや、違う、これはあの、庭の白い花だ。『青』の空いちめんからの無限の白雪となって、おちると云うより煌めく振子がゆれるが如く風に舞っている……そして、瓦屋根に、女が座っていた。……否、女では、ない、Yだ。髪はのび肩迄の御河童になっており、顔には白粉、唇には赤い紅を丁寧にひいているが、相違なくYだ。装いは不似合いな社員姿でなく、絽の、襦袢か、それとも着物を縫いなおしたワンピイスであろうか、ほそき身に運命的に沿わせている。肩が、胸もとが、脚が、荊に裂かれたふうに、大胆に開かれ。ふわり品よく組まれた脚のかたちは、人魚。艶めかしく蒸気を発するふうな肌は、芸妓の如く質感を護りつつも、背後にあるものを朧に透かした。脚には人魚の鱗となった煌めく藍の屋根瓦、胸には蜃気楼の町のレエスを飾り……そして発光する雪が、真珠の如く軀を隈なくころがり愛撫、もしくは虐め、もしくは護りつづける。御簾みすの睫の奥から黒眸をころがし、私を視る、Y。何もかもが陰鬱な『青』のなかに、Yの存在と、そして降りつづく雪だけが質を異にして眩しく、且つしっとりとなじんでいる。この光景には、父の『青』が映える。父の『青』しかない 。微塵も疑いなく思った。私は心臓を誰かの巨大な手で潰される思いで、その存在しえぬ筈の画を視た。これは父、或いは私の描きたかった画か。性と齢をもたぬYの「生れる前の世」それとも「終の栖」なのか。画の雪景色は、Yの髪や顔は、時折歪む。金魚鉢のような、水のなかにいるのだろうか。或いは私の眼が濡れているのか。
「Y」
 名を呼んだ。答はない。Yの声は水に響き馨る声だったのかもしれないと、今になって思う。声が聴きたい。しかしYは言葉を解さぬ人魚の儘。雪の光を宿したり『青』の闇を呑んだりする眼で私を視るか、透かし向うの何かを視るか。脣は紅で崇高さをましたように、とじた儘。私も床に散らした色のカオスに足を身を呑まれたか、Yの眸に石にでもされたのか、うごけない。これは私が切り棄てた、切り棄てていなければ、この屋敷に生れる筈だった光景なのか? 眼前だのに、画の世界、もしくは星とおなじに遠く、阻まれ。触れたい。己の穢れを彼の軀に映してでも。しかし叶わぬと、知っている。私への罰か? 雪ははげしくなる。水の幕が揺れ、ぼやけてゆく。
『俺も透かして殺せ』
 とでも告げたいか、安酒にただれた喉をひくつかせ、人魚の名を叫びつづけた。

 雪の純白が、とつぜん視界を隈なく、雷光の如くおおったーーーーー

ーーーーーつぎの瞬間、私は黄ばんだ古新聞のような色に、居た。轟音は、雨だ。唯の雨。傘もなく、独り。 眼前に、瓦礫の山。まわりは、視慣れた町。木造アパアト、やや傾げた電柱、一軒家が営む歯科医院、鉄筋造りの場違いな教会、路地奥から顔をだす小学校のグラウンド、反対側の家々の隙間より視える国道で何故か停まった儘の路面電車……停まっているのは、何もかもだ。何も機能していない、人がいないどころか、棲む気配もない。さきにあると思っていた蜃気楼が、実は此方なのか。
………眼前には、私と父とYの、屋敷のある筈が。区画のみを留め。あの二階には、砂のまじったような雨だけが、くうを斜めに斬る、或いはぐにゃりと歪めることをくりかえし。
 地上には草一本はえず、ほんとうにあの屋敷か? と勘ぐるほど貧小に感ずる敷地に、穢れた雪の如きコンクリイトの欠片が、いちめんに積っている。Yの手をとり駈けた庭も埋められ、あの坂の線も土の感触も思い描けぬ。Yの手首の感触さえ。
 つめたく、やけに重い雨にうたれ。私は膝をつき、童の背丈となっていたろうか。
 濡れた滅亡のにおう、己がえらびとった画を、画商や世間がするかわりに酷評し、嘲笑あざわらい、何時迄も視つめる。





©2023TSURUOMUKAWA

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