掌篇小説『如月、おばさん』
事務所の後輩で、S君という男性モデルがいる。世界にも通用しそうなスタイルをもちながら、「何着ていいかわからない」という服音痴。顔も悪くはないのだが、いつも眼を泳がせ厚ぼったい唇を半びらきにして、「蜜柑の花がきれいですよねぇ」「選挙ぜったい行きますよぉ」とか、滑舌わるく呟いたりする(選挙は2週前に終っているし、蜜柑の花は5月で、そもそも視界に植物がない)。そんなでも、モデルの仕事は不器用ながらまじめにこなし、周りにからかわれながらも好かれている。
S君は昨日、ファッション雑誌の仕事だった。空気の澄んだ青い朝、赤煉瓦倉庫の中身をリノベーションした、おおきな図書館に呼び出されたのは、じぶんと似たような、うら若くながい手足をぶらぶらもてあました男ばかり。てっきりグラビアの撮影か、もしくはそのモデルをえらぶオーディションかと思われたが。
雑誌社からの指令は、
「今日中に『恩師』をここにつれてくること」
というものだった。じぶんの『恩師』と思うひとをこの図書館につれてきたうえ、開館時間内までにふたりのインタビュー、および写真撮影が出来れば、なかなか高額なギャラが支払われる、という(駄目だった場合は、交通費程度しかもらえない)。
他の男たちは、男性モデル特有、なのかどうかわからないが舞い翔びそうなストライドと社交的なスマイルでもって、きっと『恩師』の当てがあるのだろう、駅へと向かうなり、車で出発するなりしていたが。S君はひとり、困り果てた。
じぶんの高校のときの担任は教壇を蹴りたおし「バーカ、みんな俺よりバーカ」という捨て台詞とともに無人島へ旅立ったし、中学の担任も「どうせ私は、カッコウみたいに我が子を棄てた女よ! 学校なのにカッコウとはこれ如何にね! さよなら!」と絶叫して夜のママに転職したし、小学校の担任はトイレで見たペニスは憶えていても顔や名前は朧……ともあれ、「『恩師』だから来てください」なんて頼めるほど、じぶんはほんとうの意味で誰かに師事したと言えるか? 畏敬の念を抱いたことがあったか? 無い。なんとも恥ずかしい……などと、馬鹿がつくほどまじめに思った。他のモデルたちはおおむね、『恩師』も美談も適当にでっちあげて遣り過ごすのだろうに。S君はひとり、眼が泳ぐというより釘にはじかれたパチンコ玉の如く迷っていたにちがいない。
………しかし。図書館の煉瓦が金色にかがやきはじめた夕刻、タイムリミットのぎりぎりに、S君はどこかから、誰かをつれ、もどってきた。
その日はとても冷えて、細氷がちらつき煌めいていた。遠くよりシルエットで見ると、S君によりそう人物はまるで少女か、妖精みたいだが。光が撫でて、細氷につつまれ、あらわれた姿は……おばさん。籐で編まれた買い物籠をさげ、古ぼけ焼け焦げたような塩梅のコートを着て、小芥子みたいに白く円い、やさしい顔をした、おばさん。
おばさんは、S君が長屋住まいをしていた幼いころ、隣に住んでいたひとだった。言葉も物腰も、暮らしぶりも静かで、心根もそのままに、きれい。窓辺に育てるパンジーにも、スーパーの大根にも、朝のマラソンランナーにも、夜をうろつく野良猫にも、ゴミの日を守らない若者にも、人の不幸を滋養とする夫人にも、箸がころんでも激昂する町内会の爺さんにも、いつでも隔てなく眼をほそめ、色のうすい唇に指をそえ、微笑んでいた。微笑まれた側は、ほのかに花かおる紗でくるまれるようにどこか、うっとり、和らぐ。もしおばさんがいなければ、町は呆気なく崩落するのでないか? と、はんぶん冗談ながらうっすら思わせるものがあった。そんなおばさんだが、独身であるらしいほかに、素性を誰も知らず。S君の家も特に親しかったわけではない。雑誌社の人びとは当然、「何がどう『恩師』?」と、訝しがる。
冬のある日、S君が学校・塾・エレクトーン教室・そして家で四面楚歌となり、近くの誰もいない神社の石段にすわり塞ぎこんでいたところ、おばさんに声をかけられ。おばさんは「ちょっと待って」と言って家から、ちいさな躯つきに不似合いなバドミントンラケットをもってきて、遊んでくれた。陽がうすれるまで、小一時間はつづけたろうか。服音痴なうえスポーツ音痴でもあるS君だが、何処へ飛ばすかわからぬS君の羽を、おばさんはうごき辛そうなウールスカートでも驚くほど機敏に駈けてうけとめ、S君にやさしくかえし、終らぬラリーを魔法のようにくりひろげてくれるのだった。S君はすっかり夢中になり、汗をびっしょりかいた。……しかしそれでも気分は晴れず、眉間に子どもらしからぬ皺を深く刻んでいると、おばさんは汗のひとつぶもなく、ほんのりオレンジの陽に染まった微笑みのまま、石段にならんですわり、顔をよせ、言った。
「つらい時にはね、おばさんになりなさい。気分がすこし、楽になると思うわ。坊やはノッポさんだから、いまからでも大丈夫ね。いい? やり方をおしえるから……」
そのときも、雪でなく細氷がちらついていた。躯は熱いからよけいに、不思議に見えた。バドミントンの羽を、左の掌でくるくる舞わせながらおばさんは、おばさんのもつほんとうの『魔法』を、色のうすい唇から、つたえる。
で、言われたとおりにしたところ、ほんとうに、おばさんに変身したとのこと。
『魔法』とひきかえみたいに、S君はその翌日の晩、両親に叩き起こされトラックの荷台に乗せられ、長屋を離れた。おばさんとも会えなくなった。
図書館の、ベルベットのような風合いの洋書がならぶ木造書架が、それこそ長屋の如くつづくのを背景として、ふたりのインタビューがおこなわれ。その場でS君は、眼をきつくとじ、言葉はないが何か唱えるように厚い唇を小刻みにうごかして……おばさんに、化けてみせた。白黒まざった猫っ毛で輪郭の円さのますますきわだつ顔は間違いなく、隣で菩薩の如く微笑むおばさんそのもので。姿のみならず、声色や仕草のゆるやかさまで、生き写しとなっていた。
昔から一本道でも迷子になるタイプだったS君は、人知れずおばさんに化けることでほんとうに気持ちが穏やかとなり、件の夜逃げののち体感した肩身せまいくらし、儚い恋、憂鬱な水泳の授業、深更のアルバイト(そこで夜のママになった中学の担任とも再会した。ママの店は『カッコウ』だった)、近しい人間の死といったことなど、経験せずともよい苦労も多分にふくんだ重圧に潰されたり、またそれでティーンらしい自暴自棄に陥ることもなく、まるで遥かなる昔日を望楼から見渡すが如く、すべてを咀嚼できたのだという(「ぼく本体もおばさんの影響でぇ随分オトナになったんですよぉ。バドミントンもちょっと上手くなったしぃ」とも宣っていた)。
いまはノッポどころでないモデル体格となってしまっているS君、化ければ身は3分の2ほどにちぢんだが、スタイリストに着せられたタイトなライム色のセーターも黒のガウチョパンツも、おばさん体型には存外ちょうどよいサイズとなった。おばさんも偶々、コートの下は桃色のセーターと黒キュロットで、まるで双子デュオの衣裳として誂えたみたい。いまにもマイクをもちハーモニーを奏でるか、ラケットを手に終らぬラリーをはじめそうだった。漆喰の壁にある、吊り鐘型の照明の光をあいだに挟みふたりは、鏡を見るように互いに眼を遣り、指を唇にそえ、おなじ声でうふふ、と笑う。取材陣や他のモデルはみんな、口をぽかんとひらいたままだった。
ギャラは払ってもらえたものの、「取材の趣旨からずれるので掲載は見送り」となったそう(ただ、後で記者に「おばさんのなり方、教えてくんない?」と耳打ちされたと。S君は、「誰でもなれるわけじゃないんですよぉ」と、かわした)。
折角のギャラをおばさんとはんぶんこしようとしても、きっと固辞されるだろうと思い、S君はあらかじめデパート地下へゆき買っておいた、鶏の手羽先と螽の甘露煮を土産に渡し(なにせおばさん本人になれるので、好物などもわかる。おばさんは羽の食べ物が好きらしい)、駅まで送った。
別れぎわ、夜の踏切を過ぎてゆく列車の光に、半身を融けそうなほど照らされながらおばさんは、
「私もほんとうは、おばさんではないかもしれないわよ、うふふ」
と、言った。
微笑みに細氷がひとひら、舞った。
©️2021TSURUOMUKAWA
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