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育ての親は大統領 Part1

僕には育ての親がいる。この人が存命中、北九州市で解決できない事は、ついぞ
一度も無かった。享年49歳。今回はこの方と僕との出逢いと思い出を綴る。​

僕は昭和42年、以前noteで書いたが出産と同時に心肺が停止した状態で母胎から出た。心電図が横一文字になり、死が確認され様とした時、医者が試しに射った一本の強心剤で死から生へと蘇った。

以来実父からは「お前は一回死んだんやけ、ケチケチするな」と冗談ながら言われた。以来53年間、幾度となく殺されかけ、幾度となく死にかけた。しかし何故か死ぬ所か大怪我も病気もしてない。

これには心より、神と産みの両親に感謝している。しかしこれも以前書いたが、中学生から最悪で凶悪な人生を歩み、補導に前科前歴を経て、21歳でやっと仕事を始め、コツコツとお金を貯めた。

そして平成5年。福岡県知事に日賦貸金融業者の登録申請書を出し、これが受理され、日賦貸金業社として県知事登録をした。

貸金業を興した僕は、KMファイナンスという商号で寝食を惜しみ1人で面談、融資、集金、取立て、張り込みに尾行と、全てを一人でこなした。

睡眠は平均2〜3時間。運転中眠たくなる度、押しピンで自分の腿を刺し眠気を麻痺させた。商売は順調すぎた。好きな仕事をしてお金を得る。これが経営者として一番幸せな事だとつくづく感じた。

当時は「貸金業の規制等に関する法律」という、今のロースクール卒の弁護士なら多分勉強してないような法律や、みなし弁済、大蔵省銀行局長通達等の関連法規もあった。

法律が趣味だったので好きな仕事を生業とし、楽しかった。当時の刑法の出資法では、最高年率109,5%までの金利を取っていいとされ、この法律の定める金利を超えない限り合法であった。

今だから言うが、25歳迄はトイチで小銭を回し、通帳残高が400万に膨れた時、正規の貸金業者となったわけだが、起業し1年半で貸付金を合わせ、400万円の元手が1500万円に膨れ上がっていた。

儲けたお金をまた貸す。更に合法である109,5%の金利が取れ、商いは、もはや倍々ゲームの様相を呈したが、満足はしなかった、

開業以来5年間、回収率は100%だった為、この5年で我がKMファイナンスがどれだけ儲けたかは自明だろう。しかも殆ど遊ぶ暇もなく、お金は溜まる一方。

その後、一年半経ち従業員を3人に補強。僕が少年時から可愛がっていた、地元の少年院あがりの後輩を専務にし、急成長した。だが平成11年にこの専務から、約500万程を横領された。

安い勉強料だった。500万は全て専務から回収して、その途端、即解雇した。「1週間以内に関門海峡から向こうに住め」と言ってからは一度も会ってない。

彼はその後、名古屋に行ったと聞くが、今では地元門司区で生活保護をもらう生活らしい。本当にお金は人を生かすし殺す、怖いものだと、ここでも勉強になった。

僕は、何故か貸したお客様からの相談が多く、相談を解決した時のお客様の喜ぶ顔を見るのが嬉しかった。そして平成7年。お客様から一件の相談が来た。

相談内容は、弁護士にお金を詐取されたようだ、という依頼で話を聞くと、弁護士名は横山という名で、僕はこの弁護士に対決を試みた。弁護士は兎に角逃げの一手で捕まらない。電話にまずでない。

このままでは埒があかない。さあどうしようと考えてると、ある日この弁護士が、オウム真理教の麻原彰晃被告の私選弁護人としてテレビに出ていた。

横山が一人前に、偉そうな事を言っているシーンをTVで見た僕は、カーッと頭に血が登る。「可哀想な人からお金を騙しやがって!」と。今でも僕は顧客や身内に何かあると黙ってられない。

麻原彰晃の私選弁護人は「ヨコベン」で一世を風靡した、かの横山昭二弁護士(当時=のちに懲戒処分)だった。大阪弁護士会所属。当時の僕は、この男を弁護士として、また人として許せなかった。

僕は法律書を読み直し、弁護士法と懲戒請求制度を駆使し、ワープロで書面作成にかかるが、矢張り怖い。この時ばかりは書面を出すかどうか2週間は考えた。考えれば考える程、腹の虫は治らない。

結果、大阪弁護士会に横山弁護士の懲戒を求める、懲戒請求書を出した。話は前後するが、会社を拡大するため大阪に出て勝負をかけた事がある。

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恥を晒して書いてます。人生を思い起こし、私しか経験していない、過去や現在を書き綴っております。私なりの教育論になりますが、是非ご一読頂き、ご共有の程、宜しくお願い致します。