【短編小説】出発前

 一組のカップルが喧嘩している。彼らが言い合っている場所は私たちの家の前で、私は夫と共にカフェテリアに行くためにピックアップトラックに乗っていて今から出ようとしている所である。こんな場所で足止めを食うとは思っていなかった。私はこれから夫と週末のコーヒータイムを過ごそうと意気揚々とトラックに乗り込んだというのに。

 運転席にいる夫がクラクションを鳴らした。しかしカップルはビクともしない。彼らは自分たちの世界に浸りきっている。喧嘩をしているとき人は世界には憎み合っている自分たちしかいないと思ってしまう。他の人間が彼らが起こす馬鹿騒ぎのせいで不利益を被っていることなどなんとも思わないのだ。

 私は窓を開けて彼らに「どいてよ!」と叫ぶ。彼らはなおも諍いを続ける。私の叫びは彼らに届かなかったようだ。私と夫はしばし見つめ合う。夫はため息をつきながら肩をすくめる。夫もこの状況に参ってしまっているのだろう。私たちはまるで透明人間だ。存在しているはずなのに見えない。形を失った幽霊だ。

 夫はしばし考え込んだ後、勢いよくアクセルを踏んで前の2人をひき殺した。私はトラックから降りてボンネット部分に付着した血液をハンカチで丁寧にふき取る。トラックの下から赤いマニキュアが塗られた白く細い腕が伸びていた。再び車に乗り込むと私と夫はカフェテリアに向かってトラックを走らせた。週末の余暇を楽しむために。


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