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マンネリ化って誰のせい?

 マンネリ化という言葉は、恐らく誰しも使わないまでも感じたことならあるといったような一般的な感覚のひとつではないだろうか。私も使ったり使われたりしたことはあるが、あまり良い気持ちがしない場面で飛び交う機会が多く、私にとってマンネリ化は個人的に嫌いな言葉ランキングでの結構なトップランカーだったりする。言葉そのものの意味としては、ワンパターン化することや、新鮮味を感じなくなること、もしくはその両方を因果づけて指差す言葉のように感じる。時に推しやVtuber文化について、そのマンネリ化を感じた経験はないだろうか。私はふとその気配を感じ、この感覚を少し掘り下げてみたいと思った。

 私が個人的にマンネリ化という言葉を極端に嫌いになったのは、ボーカロイドやバンド音楽に好んで触れていた時期に違和感を覚えた思い出が大きい。具体的な一例だと、憧れとしてパンクロック調の少ない楽器点数で持って勢いや衝動性を表現するスタイルが味の音楽に、マンネリ化を指摘する声を散見し、それは無理があろうと個人的に思ったが、当の本人達は真に受けて苦しんでいる場面に居合わせるといった経験がある。このとき感じた違和感の正体の大きく2つあって、1つはマンネリ化と称して指摘されたワンパターン化と、表現としての個性との境界が曖昧であること。2つめはマンネリ化という言葉を他者が振りかざした場合、受け手に届いた時は発した側の想定を大きく超える言葉の暴力と化しているということにあった。何気なく発されたであろうその一言で、簡単に築き上げたスタイルや個性も込みで否定され、当事者事としてはこんなにも信念や心を揺らがさねばならないのかと驚いたのだ。

 マンネリ化という言葉そのものにも、その定義が曖昧であるという設計上の大きな問題と、必ずコンテンツを発信する側でのみ発生するという大きな誤解がある。本当に発信の方法や運営と見通しに問題があって指摘されるマンネリ化もあれば、単にその人が飽きたというだけで突き刺されるマンネリ化もある。そして、マンネリ化はコンテンツを発信する側にだけに発生するものではなく、飽きると言う言葉に代表させるようなコンテンツの受け手側に起こるマンネリ化もこの世には存在するのである。

 どんなに素晴らしい絶景でも同じ場所から同じ角度で眺め続ければ、景色そのもののパフォーマンスは変わっていないのに、いつかは飽きが回り、新鮮味やその輝きが無くなったように感じるだろう。悲しいかな、人というのは見慣れてしまう生き物である。マンネリ化の問題はなにもコンテンツを発信する側だけの課題ではなく、目新しいコンテンツも普及と共に見慣れる過程で、ワンパターン化して新鮮味を失くしてしまったオタク側の受け取り方の課題でもあるのかもしれない。

 マンネリ化と言ってしまえば、それだけで何かコンテンツを発する側の責任というか問題というか課題であり、良くない点であり、努力不足であると容易く言い切ってしまえる。マンネリ化してない?と思ったならば、コンテンツを発信する側に問う前にフォロワーとしての自分の姿勢も見直す機会にしてみてほしい。飽きたなら飽きたで仕方がないではないか。ただし、貴方が飽きたとしても、それは貴方ひとりが飽きたというだけのことであり、それ以上でも以下でもないのだから、飽きたからといって不要な意地を張ってコンテンツ側に責任を転嫁し、自分のことを棚に上げてコンテンツ側のマンネリ化を声高に謳うな。ボカロブームでも似たようことがあって、マンネリ化して下火になったという意見の多くが蓋を開けてみれば、伝統芸能のように型が定着していくことへの戸惑いだったり、単にその人が飽きただけであったりした。

 心の熱が冷めた原因について、誰かのせいに出来た方が幸せかもしれないし、きっと楽だろうから、誰しもそうしたいと無意識に願っていて、コンテンツを発信する側にのみ矛先の向いたマンネリ化という言葉がよく使われるのだろう。私も思い返せば、推しをずっと同じ姿勢で、同じ角度からしか推したことがないのではないかと思った。不意に離れた心を推しのせいにしていないか。まだ知らない推し方、楽しみ方があるのではないかと思うと胸が躍るように思う。そう考えると、ふと熱が冷めることも決して悪いことだけではない。心の離れを感じたり、熱量の揺らぎを感じたなら、無理に維持しようとしてバランスを崩すより、ひと呼吸置いて考え直す機会にしてみてほしい。一歩引いて眺めた方が綺麗な景色が拝める場合もこの世にはあるのだから。

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