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負の自信と推し

素晴らしいのだから推しには自信を持ってほしい。
 
自信なさげな推しを前にVtuberの厄介オタクとして私は頻繁にそう考える。
 
他にもVtuberオタク特有の「生きているだけで偉い」とか、「息吸えて偉い」とか、寝坊しているにも関わらず「起きれて偉い」とか、無論、我々はもう正気ではないので、そうでない人からすれば正気を疑うような勢いある称賛を私もそのフォロワーの1人として言うまでもなく心から何の疑いもなく推しに向けてきた。
 
しかし、同時に私から発せられる推しに向けた称賛は、どれもその前段に「こんな私とは違って」が省略されている。
 
そういえば、私も自信がない呼ばれをする側の人間であった。
 
「推しはいつもがんばってて偉いな」と思い始めた当時からその前段の省略があったか否かについて記憶も曖昧で確かめようもないが、途中からであったような予感がする。
 
当然ながら推しは光属性で太陽のような光源であるわけだから、照らされれば己の影が浮き彫りになる。照らされて目がくらむのは自分が暗い場所に居るせいだとも考えた。
 
現実世界で乾いた心を潤すために見始めたはずが、いつの間にか「それに引き換え自分はどうなんだ」と自給自足で凹みだす始末である。
 
推しには自信を持ってほしいと抜かしながら、私は自分の自信のない部分を他者から「自信持てよ」と励ましてもらっても響かないことばかりであったのを思い出して悲しい事実に気が付いてしまった。
 
私は自信がないのに自信があるのだ。いや、自信がない部分について不出来であるという揺るぎない確信があるといか、気付けば自分が至らないということに自信がついてしまった。
 
推しも似た心境にいるのだろうか。
 
自分と推しを並べて考えたことを我ながらおこがましく思いつつも、自信というものに絶えず悩まされているこの人生に思いをはせると、トラウマは簡単にフラッシュバックをし、なんとも気まずい昼休みを過ごす羽目にあってしまった。

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