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Vの何を見ているのだろう。

 私はVtuberの厄介オタクこそしているが、自分がVの何を見ているか、またVに何を求めているかについての理解はあまり進んでいない。なんとなく見ていて、なんとなく救われた気がする程度である。「Vの何、見てる?」と聞かれた場合、配信の内容を話題とする場合が多いが、じゃなくて本質的な要素として、貴方にとってVの何が必要だったのかと問われると、私の場合、存在や知名度的なフォロワー数、それとあとはバーチャルであるという現実逃避にちょうど良かった理由以外は、もしかして無いのかもしれないと思った。

 私は、かつてボカロクラスタと呼ばれる、ボーカロイドの関連コンテンツに対して、その傾倒具合が目に余る、あるいは度を越した廃人のひとりであった。とある動画サイトに投稿されるほぼ全ての作品に一応は目を通す勢いで、再生数の小さい順とか、投稿の新しい順とかで発掘を好き好んでやっていたほどだ。しかし、Vtuberに関しては埋もれている新人ライバーやまだ見ぬ出会いを求めて積極的に発掘をするというほどの姿勢ではおらず、有名どころから、とりあえず目に留まったものを見ようといったミーハー層である。

 当初、私はVtuberを存在として、イラストで表現され立ち絵などと呼ばれるその立ち姿や数字(有名さ)でしか見てないらしいと自身について思っていた。しかし、数字や存在感についてズレがあるように思うことがあった。個人的な肌感覚と実際の登録者数・フォロワー数が大きく離れている場合がある。失礼な話、「もっと多いかと思っていたけど思ったより少なくね?」とか、「こんなにフォロワー居るとは思わんかった…」とかいう話である。

 イメージや想像上の質感・存在感・質量感について、こういったズレは人として生きる以上は標準装備だったりする。人は事実を認知する過程で思い込みや印象だったりその時の感情なんかが作用して補正がかかってて物事を客観的な事実にのみ忠実な形で認知することの出来ない生き物であるから、こういった認知のズレは仕方がないし、厄介を被る場合も多いが、そこが味と呼べる場合も少なくはない。

 Vtuberもバーチャルとはいえ、中の人がいる以上は全然バーチャルではないと言い切れなくはないが、リスナーとして個人個人がその存在を認知するとき、その個人ごとに感じるイメージや想像上の質感・存在感・質量感については実体がなく客観的事実とは異なることから、恐らく寝てみる夢と希望や理想の夢との両方の意味で夢と呼べなくもない。むしろ、そういう意味でこそのバーチャルなのかもしれない。

 Vtuberそのものを見ているようで、私たち厄介オタクは皆が夢を見ているのかもしれない。もちろん、中の人の魅力や人柄も込みでそのVtuberとしての存在を見るために、またはそれと会うために画面の前へ出向いているわけだが、そこで我々は夢を見せてもらっているような気がした。

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