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バーチャル・リアルどっちが大事?

 私はVtuberの厄介オタクであり、前回投稿したnoteで「バーチャルかリアルかって重要?」と謳い、重要性はそこになくて別の場所にあると声高にイキリ文章を書いた者であるが、じゃあどっちが大事かという話になると、また話は変わってくる。少なくともそこには主観的で個人的なお気持ちと客観的な定説の2種類があって、そのズレや板挟み状態が災いして精神的苦痛を感じる場面も人によっては少なくないのではないか。私にとっては少なくとも死活問題である。どちらも大事だが、その大事の意味の在処が違うのだ。

 まずは主観的で個人的なお気持ちの方の話をすると、私にとってバーチャルの方が圧倒的に大事である。私にとって現実逃避は必要不可欠であり、特にバーチャル無くしては心が生きられない。それは実生活が上手く行っていないからだよと指摘されればぐうの音も出ないが、この際なので正論パンチはお控えいただきたい。お察しの通り私のように主観でもってバーチャルを尊重し、依存している者はどこかで現実で地に足がついていない節がある場合、そこを指摘されると反論の余地が秒でなくなる。

 しかし、現実において自分の足で立ちながらバーチャルを尊重する人物も居るは居るのだから、そこを指摘するのは思考の放棄であり、揚げ足取りに他ならず、意地悪が過ぎると言えよう。とは言ってみたもの、主観的で個人的なお気持ちとして現実よりもバーチャルの方を尊重する心模様は、現実逃避としての側面が悪目立ちし、そこに他社からの客観的な理解を得ようとすることは困難を極めるらしい。私も経験上、いじめや不適合にあい、現実に居場所などなかった思い出も込みで力説したとて、鼻で笑われて終わりであった。

 客観的な定説としては、絶えずリアルの側が圧勝である。現実の世界というのは何をするにもその土台になるわけだから、バーチャルもまたリアルの一部であるわけで、そうなればもう勝ちようがない。現実での実生活のある一定以上の安定がないことには、推しを推す余裕も捻出できないように、リアルとバーチャルというのは全くの別物と区別して見られがちではあるが、決して全くの別物というわけではなく、その相互関係性は色濃い。

 順序としては現実世界での実生活があってこその趣味嗜好であるし、リアルなしにバーチャルは存在できないわけなのだから、リアルの方が大事であるという定説も理解できる。夢や空想だけでは生きていけないのだから、先に現実で地に足を突くべきであるという正論パンチはクリティカルヒットで大変に耳と心が痛い。しかし、バーチャルなしにはリアルの苦痛にまみれた実生活など手につかないという私のような廃人も居るわけである。

 バーチャルという言葉も、自分の空想世界と他社から提供される仮想世界の2つに大きく分けられる。自分の空想には恐らく一生退屈しないだろうが、現実はいつも退屈や限界が顔をのぞかせる。実生活がうまく行かない者にとってその陰はより大きくなる。それが理由で空想の世界に重きを置く姿勢はいつも現実逃避的であり単純にトリップであるから、うつつを抜かしているものとして扱われるのだろう。しかし、アニメや漫画やVtuberに限らず、映画・演劇・文学作品などでも他者から提供される仮想の世界に酔いしれた経験など、誰しもなくはないだろう。娯楽としてバーチャルな世界というのはいつの時代もそこにあったはずなのに、なぜ現実を相手取って負け戦に臨まされるのだろうか。

 その答えは世の中の無常さに隠されている。我々がリアルよりもバーチャルに依存しすぎているように、一方でリアルに依存したり依存し過ぎたりする人も居る。リアルに重きを置いて生きる人たちは自身が現実で地に足がついていると実感するために自分には現実だけで十分だと思いたいらしく、その一環でバーチャルを卑下したりするらしい。実際に普通は、というか本来は現実の世界だけで事足りるハズだったのだろう。しかし、そもそもそれが破綻の兆しを見せたから人間には空想する力が備わったのではないだろうか。

 単純な話で、リアルとバーチャルはどちらも大事で、どちらか一方が大事じゃないということではない。自分にとって、または自分以外の誰かにとって、その比重がどちらか一方に傾いたからといって、もう一方が大事なことではないということにはならないのだ。今の自分には必要ないことが今まさに必要不可欠な人も居て、今の自分に必要なことを必要としない人も居る。悲しいかな、人には自分の属す集団のみが崇高で、他は等しくそれに満たないと思い込みたくなる仕組みが標準装備で備わっているらしい。

 私もそうだったから、現実に居場所がなく自分にはバーチャルしかないと思える状況でバーチャルを否定されたら存在を否定されたようで憤るし反撃したくなる気持ちがわかる。働く人が無職をやたら攻撃的に批判するのと同じ理屈で、現実を忠実に生きてきた人には対極の存在が存在するだけでその人生の根幹を揺るがす脅威に思えて自分の人生を否定されたようで反撃したくなるのかもしれないと思うとその気持ちもわからないでもない。しかし、実際は心の支えとする柱の在処が違うだけなのかもしれない。

 他者への否定によって位置づけられた肯定感には少なからず歪みと限界が生じ、結果的にそれらの先が見え透いた後は嫌味や味気なさに直結したりする。しかし、外集団同質性バイアスという言葉が発明させるぐらいだから、心の弱さや不安から不意に絶えず自分が属す集団以外のことを恐れたり指さしたりしたくなるし、それに魔が差すタイミングというのは来てしまうのかもしれない。もともと一般社会からの風当たりが強めなことで有名なオタク活動を趣味とする我々は、自分の心の支えの尊厳を守るために、誰かの心の支えの悪態をつくようなことは意図してでも避けたいものだと肝に銘じる必要があるのかもしれない。推しに来ただけで、宗教戦争をしにきたわけではないのだから。

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