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私になぜVが必要だったか考えたらキモすぎた

 私はVtuberの厄介オタクをしている者であるが、私にとってそれがVでなければならなかった理由など、私が個人的に抱える現実世界での不適合の言い訳や、それに伴う現実逃避に他ならない。同じタイミングで何か違うものに出会っていたら、きっとVではなくてそれの厄介オタクをやっていたことだろうと思う。その程度にミーハーで、オタクとして張れる胸など私にはない。

 変な話、失礼を承知で言えば、なるべく少ない後ろめたさでもって現実逃避さえ出来れば私はそれ以外を必要としないのかもしれない。私はいつも現実逃避する言い訳を探していて、推しという言葉も私にとっては現実逃避の言い訳でしかないのかもしれない。ボカロにハマったときも凄い勢いを見せるブームがあったから、どこか仕方のないことであると言い訳にしていたし、Vtuberブームや膨大なフォロワーを抱える配信者を眺めることも、大勢がそうなのだから私がハマるのも仕方がないではないかと言い訳にしている節がある。アニメやライトノベルといった完全に空想の世界を相手にする場合より、Vtuberは現実に存在があるわけだから、ハマる言い訳がしやすかったのだと思う。アニメに対してもエヴァとかその当時のけもフレとかが公言しやすかったのと同じ理屈である。

 この場合の言い訳というのは自分に対してである。自身のポリシーに芯を持ち、自我というものがある程度確立されている普通の大人たちには理解できないだろうが、自分に対して伺いを立て、空想上で周囲の様子を伺ったり何かに怯えたりしながら言い訳を取り繕って外堀を固めて許しを乞わないことには、自分が好きなことにも好きであると向き合えない私のような難儀な人種も存在するのだ。私にとって、生々しく汗だくになってリアルのアイドルを追いかけるより、いい歳を過ぎて尚アニメに夢中になるより、人知れず自室でVtuberを推す方がその言い訳がしやすかったのだろう。

 私のような日陰の民にとって、薄暗い人生や陰鬱で罪深い自分自身への葛藤の気紛らわしになるのは希望の光ではなく、現実逃避的な没頭に他ならない。何かそれ以外は手が付けられないほど釘付けになることで、消去法的に後ろ暗いことを一時的に無視しては誤魔化しながら生きてきた。きっとVtuber相手にも私はそれを求めているのだと思う。良い意味で配信を見ている時は推しの事で頭がいっぱいになる。それまでずっと不安や憂うつでのみ満たされていたことに、その時間だけは向き合う余裕がなくなるのだ。

 同じ理由で私はバイクに乗る。特別バイクが乗り物の中で何よりも好きだというわけではなく、バイクに乗っている時はバイクに乗る以外のことをしなくて済むからだ。運転の操作も自動車より複雑で集中しないと危ないから、持てるリソースのほぼ全てを注げて都合がいい。Vtuberに対しても、推しとか言って持てる全てを注ぎたいのは同じ理屈なのかもしれない。私は現実逃避の言い訳を探しに、今日もYoutubeでホロライブとか、にじさんじとかで検索することだろう。

 まとめると、推しに釘付けになることで配信中だけでも一時的に現実から私を引き剥がしてもらいたいのだけれど、言葉にすると気持ち悪いが過ぎる。Vのオタク全てが現実逃避をしているわけでは決してないが、私自身のことに限ってはそれに他ならない。悲しくも情けないことに、キモオタというのは一生キモオタをする以外ないらしい。

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