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兼藤伊太郎

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「無駄」の首謀者、およびオルカパブリッシングの主犯格、兼藤伊太郎による文章。主にショートショート。
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2022年1月の記事一覧

渇き

渇き

 激しい喉の渇きに目が覚めた。口の中はカラカラで、少し動かしただけでヒビでも入りそうだった。
 真夜中だった。キッチンの蛍光灯の明かりがまぶしく、目が痛かった。
 冷蔵庫にはなにも入っていない。仕方がないので、水道水を飲むことにした。
 蛇口を全開に、最初はグラスで飲んでいた。こぼれるのも気にせず。乱暴にそれを満たすと、すぐさま口に持って行き、一気に飲み干した。何度それを繰り返しても、渇きは癒され

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本当に来るはずだったのとは別の朝

本当に来るはずだったのとは別の朝

 朝、目覚めると、それが本当に来るはずだったのとは別の朝であることに気づいた。
 ぼくらは小さなオンボロ車の中で、身を寄せ合うように眠っていた。ふたりで毛布にくるまって。彼女の寝息を耳元で聞くのはとてもドキドキした。
 ぼくが目を覚ますのとほとんど同時に、彼女も目を覚ました。朝の空気が、オンボロの隙間から入ってきていた。とても新鮮で、まだ誰も踏み荒らしていない新雪みたいな空気だった。
「おはよう」

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倦怠期

倦怠期

 彼女はいたって普通の家庭に生まれ、普通に育った。
 普通ってなに?という問いは今は脇に置いておこう。これに関してはなかなか長い話が必要になるだろうから。
 そして、普通の恋をして、普通の結婚、と思ったのも束の間、彼女の新婚生活は驚異の連続となった。
 なぜなら、それは恋をして、結婚したその相手が手品師一家の息子だったからだ。
 夫となったその人はもちろんのこと、義父も義母も、義妹も、果ては飼い犬

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パレードが行く

パレードが行く

 リンゴを切っていたら指を切った。四等分に分けようとしたときだ。
 勢い余って、左手の人差し指を切り落としてしまった。ちょうど第一関節のあたりだ。まな板の上に、わたしの左手人差し指第一関節先が転がっていた。コロンと。もちろん、それなりに痛かったし、それなりに血が出た。それなりにというのは、人差し指第一関節先を切り落としたなりにということだ。
 わたしはそれなりに慌てた。痛かったし、血が出ていたのも

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高いところから世界を見れば

高いところから世界を見れば

 その塔の売りは世界を一望できることである。これは比喩表現ではなく、本当に世界の全体を一望できるらしい。とてつもなく高い塔なのだ。見上げるとあまりに高くて首が痛くなる。しかし、この高さで世界を眺め回すのに十分だろうか? どれだけ高くなったところで、本当に全体を見渡すことなどできないのではあるまいか。百聞は一見に如かず。なにはさておき昇ってみよう。
 塔のエレベーターに乗り込むと、エレベーターガー

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残らなかった悲しみ

残らなかった悲しみ

 信頼の置ける史料によると、かつてその土地では大規模な自然災害が発生していた。
 もしそれがいま起きたのなら、「未曾有の」と形容されることだろうが、地質学的な痕跡を見るに、その規模の自然災害は周期的に起きていた。人の一生から見ればそれは人生のうちに一度あるか無いかの大事件ではあろうが、自然の方からすればそれは通常運転である。
 我々は実に儚い。
 史料によると、その土地にはそのころすでにそれなりの

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この世界は素晴らしい

この世界は素晴らしい

 わたしがまだこの世界がいいものなのか、それともうんざりするくらい悪いものなのかを決めかねていたときに、この世界の素晴らしさを教えてくれたのは彼だった。
 わたしが彼の家に行くと、彼はよくその庭の片隅でしゃがみ込んでいたものだ。
「なにをしているの?」わたしはかがんで丸められた彼の背中に尋ねた。
 彼はなにも答えない。彼の肩越しに彼の見ているものを覗くと、地面を動くものがある。わたしも彼の隣にしゃ

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それぞれの人生

それぞれの人生

 目覚めて最初に見たのは見知らぬ天井だった。眠りにつくときとは違う天井。初めて見る天井だ。
 特に驚きはしない。いつものことだからだ。
 別に前後不覚になるまで酔い潰れて知らないところで目覚めるのが日常茶飯事になっているわけではない。
 わたしは身を起こし、自分が女子学生であることを確かめた。今日は女子学生なのだ。わたしは女子学生であり、起きて、身支度をして、学校に行かなければならない。
 前の日

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不思議な話

不思議な話

 土曜日の昼下がりのことだ。土曜の昼食はぼくの当番なので、ぼくはまずいチャーハンを作った。もちろん、おいしいチャーハンを作ろうとしたのだけれど、残念ながらまずいチャーハンが出来上がってしまったのだ。それを目指して作ったわけではない。
 彼女はぼくの作る料理に一切の文句や苦情を言わない。出されたものは残さずに食べる。おいしければおいしいと言ってくれるので、おいしいと言ってくれないということはおいしく

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そして、ミサイルが降り注ぐ

そして、ミサイルが降り注ぐ

 大佐のもとに一本の電話が入った。この電話は極秘の回線を利用したものだ。限られた相手としかやり取りができず、盗聴は不可能だ。
「もしもし」大佐は受話器を取り、重々しくそう言う。
「もしもし」電話をかけてきたのは大佐の所属する国と交戦状態にある隣国の将軍である。
「おお、これはこれは」敵対する国の人間からの電話だとは思えないぐらい大佐は友好的な口ぶりである。
「またお願いしたいんだがね」と、将軍は

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見棄てられたぼくら

見棄てられたぼくら

 その先生のことをぼくらは舐めきっていた。若い先生で、その上とてもおとなしい人だった。そういう嗅覚は不良っぽい生徒ほど発達していて、彼らはその先生の授業になると授業なんてまるで聞かず、おしゃべりし、ものを投げあってじゃれ合うようになった。
 ぼくらは先生が起こるんじゃないかとそれをヒヤヒヤしながら見ていたのだが、叱責も、怒声も無し。一瞥もしない。先生は彼らがどんなに騒いでいても、それには構わないで

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ウサギが逃げた

ウサギが逃げた

 ぼくの通っている学校ではウサギを二匹飼っている。校門のすぐわき、校庭のすみっこにある飼育小屋で、その二匹は暮らしている。
 「二匹」と言ったけれど、その数え方が正しいのかは知らない。一度、「二羽」と言ったら、友だちに「鳥かよ」と笑われたので、「二匹」と言っている。郷に入っては郷に従えだ。子どもであっても、それなりの処世術を身につける必要はあるのだ。
 大人が思う以上に。
 ウサギがどういうわけで

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とても澄んでいて、すごくきれいなもの

とても澄んでいて、すごくきれいなもの

 とても澄んでいて、すごくきれいなものを拾った。
 冬の、雲ひとつない天気のいい日だった。
 わたしは地面に這いつくばっていた。波の音が聞こえる。海の近くの護岸を歩いていたら滑って転んだ。これほど派手に転ぶのは子どものころ以来だと思う。
 昔は、もっと転んでいた。膝を擦りむいたり、手を擦りむいたり。
 大人になって久しぶりに転ぶと地面の固さに驚く。もちろん、そこが護岸で、コンクリートで固められてい

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あの頃の俺たちが見たら

あの頃の俺たちが見たら

 妻とはこの数年ほとんど会話らしい会話をしていない。子どもたちが巣立ち、夫婦ふたりだけになると特に話すべきことも無いように思えた。一度口をきかなくなると、それを改めて開くのが億劫になった。
 いや、臆病になってしまったのだ。なにか口を開けば、妻の機嫌を損ねるのではないか。不用意なことを言ってしまうのではないか。会話を交わさなくなると、そんな不安が頭をもたげるようになった。そうして会話をせずにいると

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