マガジンのカバー画像

兼藤伊太郎

1,010
「無駄」の首謀者、およびオルカパブリッシングの主犯格、兼藤伊太郎による文章。主にショートショート。
運営しているクリエイター

2021年12月の記事一覧

さようなら、いままでありがとう

「夢を見た」と、彼はリビングにやって来るなり言った。「夢の中で、ぼくは売れないバンドマンのまま、ガラガラのライブハウスで演奏したり、路上で弾き語りしたりしてた。オンボロアパートに住んでて、車も、財産も一切ない」
 彼女は、コーヒーを淹れて飲んでいるところだった。昼食を済ませたところだった。かたわらにはトランクが置いてある。
「そう」と、彼女は言った。「そこにわたしはいた?」
「うん」と、彼はうなず

もっとみる
各駅停車天国行き

各駅停車天国行き

 起き抜けにドアのチャイムが鳴らされて、だいたいこういうのはろくなことが起こりはしないと思って居留守を使ったのだけれど、それでもしつこく諦めない。きっと面倒なことになるに違いないとは思うのだけれど、出ないことには引き下がる様子もないし、そもそも出なければ話が始まらない。わたしは重い腰を上げ、ドアに向かった。
 覗き穴から外の様子を窺うと、とてもきれいな人が立っていた。この世のものとは思えないくらい

もっとみる
抜け殻の彼女

抜け殻の彼女

 自分自身が抜け出してしまった女の話。
 それはほんの些細な傷だった。取り落としたグラスが床で砕けたその破片を、拾おうとしたときのことだった。
 それは彼女がボーイフレンドに買ってもらったものだったし、少なからぬ思い出も詰まった品だった。だから、手が滑って落としてしまった瞬間から気分が落ち込んだし、床で砕けたときにはそれと同じか、それ以上の痛みを感じたものだった。まるで、自分の心が砕けた音みたいだ

もっとみる
宇宙の持ち主

宇宙の持ち主

 妙な男に会った。
 くたびれた身なりをした初老の男だった。髪の毛はだいぶ白くなっているし、顔も手も皺で覆われている。着ている服はよれよれで、ちゃんと洗濯をし、シワも伸ばしているだろうに清潔感を感じさせない。歩みもおぼつかず、少しヨタヨタとしている。どちらかというと、人生の敗者といった趣である。失礼な話だが、わたしはその男を見てそんなことを感じた。
 わたしがバス停でバスを待っていた時のことである

もっとみる
極点

極点

「兄とぼくは」
 それが彼が彼とその兄とについて口を開いてくれた最初だった。それまでに、わたしが彼を訪れるようになってから半年の時間が経っていた。週に一度、三十分ほどわたしは彼を訪れ続けた。そうして彼を訪れてはいたが、それまで交流らしい交流は無かった。わたしと彼は向かい合って座り、わたしが声をかけるが、彼はなにひとつ反応を示さない。口をきくまいと反抗的な態度をとっているのとも違う。まるでそこにわ

もっとみる
重いものは水に沈む

重いものは水に沈む

 その偉大な王は文武に秀で、特にその弓の腕前は右に出る者はいないほど、針の穴を通すとはまさにそのことで、どんな離れた標的でも過たずに撃ち抜いた。あるとき、その偉大な王は空を行く大きな影に気づき、鳥だと思ってそれに弓矢で狙いを定めた。それが鳥ではないことがわかったときにはもう遅かった。矢は放たれており、それは過たずにそれを撃ち抜いた。
 空を行く影は女神だった。
 王の放った矢は女神の心臓を射抜いた

もっとみる
夢を捨てる

夢を捨てる

 夢を捨てることにした。わたしには大きすぎる夢だったからだ。確かにとてもきれいで、見ていてほれぼれするようなものではあったけれど、役に立たないようならただ邪魔なだけだ。わたしの住んでいる狭いアパートの部屋は、それがあるせいでほとんど身動きが取れないくらいだ。
「捨てることにした」と、わたしは友人に話した。「夢」
「は?」と、友人。「なに? 急に」そして、居酒屋のぼんやりとした空気の中にタバコの煙を

もっとみる
あの人の娘

あの人の娘

「わたしがあの人の娘だから?」と、彼女はわたしに尋ねた。とても静かで、肌寒い夜だった。
「どういう意味?」わたしは尋ね返した。質問の意味が理解できなかった。「あの人って?」
 彼女は少し黙り込んで、それから意を決するように言った。「母。わたしの母」そして、息を吸い込み「だから、あなたはわたしのそばにいるの?」
「違うよ」と、わたしは言った。やっと彼女の言う意味が飲み込めた。
 彼女の母親は有名人だ

もっとみる
女王陛下のことを愛さなければならない

女王陛下のことを愛さなければならない

 もしその女王が鏡に向かって「この世で一番わたしのことを愛しているのはだあれ?」と尋ねたとしたら、「それは女王陛下、あなた自身でございます」と鏡が答えるくらい、その女王は自分が大好きな人間だったので、自分の国の国民たちが自分を充分敬愛しているとは考えなかった。充分どころか、全然不足である。まるでなっていない。
 女王は国民どもの母であり、女神であり、恋人であり、その他もろもろ、とにかく最上級に愛さ

もっとみる

内緒

「いい、これは内緒。お父さんとお母さんに言っちゃダメよ」わたしは暗がりの中、弟にそう言い聞かせた。
 まだわたしも弟も小さいころのこと、まだ仲が良くて、まだ同じ子ども部屋で寝ていたころのことだ。
「うん」と、弟は言った。
「よし」わたしは言った。「じゃあ、お父さんとお母さんに訊かれたらどうするの?」
「お父さんとお母さんに言っちゃダメって言われてるから言えない」と、弟。
「それじゃあ、隠し事がある

もっとみる

心を売る

 心を売った。比喩表現とか、もののたとえとかではなくて、正真正銘、わたしの心を売ったのだ。売って、その代金をもらう。心が売れるなんて思ってもみなかったから、そんな申し出があったときにはとても驚いた。
「みなさんそうおっしゃいますよ」心を買い取りに来た業者のおじさんはそう言いながら笑った。「だいぶ怪しまれるものです」
「はあ」と、わたしは気の無い返事をした。だいぶ怪しい感じのおじさんだった。
 わた

もっとみる
あと九歩で

あと九歩で

 この男はあと九歩で死ぬのだ、と彼は思った。きっかり九歩、彼は前日その道程を歩いて確かめていた。その地点から、きっかり九歩だ。
 彼は自分がなぜその仕事をしているのか知らなかった。それは彼の望んだものではなかった。いや、彼はそれを望んだのだ。しかしながら、彼のその望みとは本当に彼の望みであったのか、彼にはわからない。
 刑吏。植民地での刑吏の職。それがいまの彼の仕事である。
 彼は頭上を見上げる

もっとみる
目を覚ますと世界は

目を覚ますと世界は

 目を覚ますと世界は、眠りにつく前とはまったく違ったものになってしまっていた。
 そんなことが起こらないものかと、いつもわたしは思っている。眠りから覚め、目を開く瞬間、世界がそれまでと違ったものになっている。あるいは、わたし自身がそれまでとは全然違ったものになっている。そんなことを願いながら、祈りながら、わたしは目を開く。
 そこにあるのは、前の夜と変わりばえのしない世界、狭いわたしの部屋の天井が

もっとみる
舌の上の憎しみを

舌の上の憎しみを

 女は自分の舌の上に憎しみがのっていることに気づいた。舌触りからして、それは見るにおぞましい姿をしていて、味はひどく苦かった。明らかに深い憎しみである。
 舌の上に憎しみがあることを、女は気付くまで気付いていなかった。数日前から口の中に違和感はあったが、また口内炎でもできたのだろうと思っていた。だから、それがいつの間にそこにあったのか、女は知らなかった。
 自分から進んでそんなものを口に含んだ記憶

もっとみる